鉄道ホビダス

2012年1月アーカイブ

駒形石灰 再訪。

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▲駒形石灰工業の構内で保存されている加藤製4.8t機(1961年製)。キャブ部分にはテント式の屋根が設けられている。'09.7.21
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現在発売中の本誌3月号(№342)では、トワイライトゾ~ン Specialと銘打って田中義人さんの駒形石灰工業専用軌道訪問記をご紹介しております。

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▲構内にはグランビー鉱車(右)も残されていた。ちなみに僚機3.5tGLは埼玉県鳩山町の公園に保存されている。'09.7.21
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駒形石灰工業の2フィート軌道は、日鉄鉱業羽鶴専用線(アーカイブ「1080搬出の記録」参照→こちら)や住友セメント栃木工場専用軌道(アーカイブ「住友セメントの"カブース"たち」参照→こちら)など数々の軌道がさながら"魔境"を形成していた葛生にあっても、とりわけ魅力的なナローでした。路線距離は600mほどと短いものの、土埃をあげて未舗装の併用軌道を走り、民家の軒先をかすめ、火の見櫓の下を回りと、そのシチュエーションはまさに模型ジオラマ。田中さんの訪問記はその魅力を見事に伝えてくれています。

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▲田中義人さんのフォトジェニックなグラフで綴る「一度きりの邂逅 ―駒形石灰専用軌道―」。本誌最新号(№342)誌面より(一部)。
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私がこの駒形石灰専用軌道を初めて訪ねたのは、田中さんの一年前の1974(昭和49)年のことでした。一部は『トワイライトゾ~ンMANUALⅡ』(1993年)でもご紹介しておりますが、この時点ですでに東武側線山菅1号荷扱所のホッパーを使った砕石輸送は終了しており、軌道の余命は長くなさそうな気配でした。

120131n005.jpg住友セメント専用軌道の訪問を終え、帰りしなにここ駒形に立ち寄った田中さんは、ラッキーなことに1往復の製品輸送列車に遭遇、歩くような低速の列車を追いつ追われつ撮影されましたが、結局この1往復が田中さんにとって最初で最後の邂逅となってしまったそうです。しかし、この当時の状況を振り返ってみると、1往復だけでも遭遇できたのは幸運以外のなにものでもなく、私も2回目の訪問時にはついに一度も動く列車に出会えない不運に見舞われています。
▲工場を出ると併用軌道となり、列車はガソリンスタンド脇をすり抜けるように走っていた。現在は、スタンドがあったと思しき地点には葛生原人出土跡の碑が建つ。'09.7.21
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▲ハイライトであった火の見櫓(画面左奥)の下を通る区間は生活道路としてその痕跡を留めている。右の家屋も軌道時代のまま。'09.7.21
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営業鉄道と異なり、この軌道が果たしていつ運転を止めたのか定かではありません。少なくとも田中さんが訪れた1975(昭和50)年中には使われなくなってしまったようで、この年の7月に私が訪れた際にはすでに休止状態となっていました。さらに1976(昭和51)年5月に念のためにと訪れた時には、すでに軌道は撤去されてしまっており、2輌の機関車も工場裏手の資材置き場に並べられているような状況でした。

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▲田中さんのレポートの表紙写真が撮影された地点。撮影方向が180度逆で、道幅も拡幅されているが当時の家屋(左奥)は健在。'09.7.21
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▲人家の軒先をかすめるように進んだ軌道(手前の小路)は、山菅荷扱所(画面前方)の構内へと入って行った。'09.7.21
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▲画面前方の塀の脇を通った軌道は、ささやかな逆勾配に苦しみながら山菅1号荷扱所を目指す。田中さんのレポート(上掲ポップアップ参照)写真と比較すると、塀や左の建物など変わっていないのに驚かされる。'09.7.21
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それから30数年、別件で葛生を訪れた際に再訪したのが今回お目に掛ける写真です。葛生の町自体もかつての賑わいを失ってしまったようで、クラッシャーやベルコンの音が絶えなかった山菅荷扱所跡もすっかり静まり返っていました。それでも軌道跡を辿るとそこかしこにあの日の面影を見つけることができ、しばし2フーターの忘れ得ぬ思い出に浸ることができました。

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「草軽」消えて半世紀。

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▲まるで温室のような三角形の屋根を掛けられて保存されているデキ13 。車号は13だが、形式はデキ12。'10.5.15
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もう少し早く生まれていれば...と叶わぬ思いを抱くのは、いつの時代もこの趣味につきものですが、私にとって「草軽電気鉄道」はそんな思いをせずにはいられない対象のひとつです。

101115n031.jpgわが国屈指の保養地・軽井沢と草津温泉との間55.5㎞を結んだ草軽電気鉄道、"草軽"は、浅間山麓の雄大な高原風景と、さながら等高線に寄り添うように走るその線型、そしてサマーカー(展望客車)に象徴されるその個性豊かな車輌たちが数々の伝説を生んできました。今もって「もし草軽が残っていれば」とその波及効果を惜しむ声さえあることからしても、この鉄道がどれほど魅力的なものだったのかが伺い知れようというものです。
▲軽井沢町教育委員会が管理運営する再築保存施設「(旧)軽井沢駅舎記念館」。この前庭にデキ13が保存されている。'10.5.15
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▲塗装は褪せ始めているものの状態は悪くない。このデキ13は1962(昭和37)年の廃止後、草津温泉駅構内に放置されていたのを軽井沢町が保存したもの。なお、前にある車輪は客車のものだと説明がある。'10.5.15
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台風による被害から立ち直れずに新軽井沢~上州三原間37.9㎞が廃止となったのが1960(昭和35)年4月。以後は上州三原~草津温泉間17.6㎞で営業を続けていましたが、"陸の孤島"と化した軽便鉄道が延命できようはずもなく、この残された区間からも列車の姿が消えたのが、今からちょうど50年前の1962(昭和37)年1月31日のことでした。

101115n028.jpg運転最終日となった1月31日はたいへんな大雪となり、終点・草津温泉を目指した下り列車は、職員の皆さんの懸命な除雪にも関わらず、ひとつ手前の谷所で力尽き、それが草軽の最終列車になってしまったそうです(RMライブラリー『草軽 のどかな日々』→こちら)。
廃止後しばらくは、いくつかの車輌が残されていましたが、経年とともに櫛の歯が抜けるように消えていってしまい、現在では保存と呼べる状態にあるのは軽井沢駅前の(旧)軽井沢駅舎記念館前に展示されているデキ13だけとなってしまっています。
▲そのキャブ内。もともと米国ジェフリー製のマイニング機だけに異様に狭い。コントローラーの後ろに見える丸ハンドルは手ブレーキで、最後まで空気制動は装備されていなかった。'10.5.15
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▲1932(昭和7)年から翌年にかけて改造されたという先従輪(左)。軸重軽減よりも脱線回避のための案内輪役だったようだ。右は台枠間にぎっしりと収まった動輪と主電動機。'10.5.15
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このデキ13、かつては駅から少し離れた中央公民館前に保存されていたもので、当時から三角形の屋根が全面に掛けられていましたが、こちらに移設されてからは屋根板部分が透明となって多少は様子が見易くなりました。

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▲重力式の独特のパンタグラフが特徴のデキ12形。この方式のパンタグラフは日立鉱山などでも使用されていた(アーカイブ「日鉱記念館の保存電機」参照→こちら)。'10.5.15
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現車を見ると、マイニング・ロコを出自とするだけにその小ささとプリミティブな機構に改めて驚かされます。営業鉄道にも関わらず空気制動さえないこの機関車が、標高1280mの国境平を越え、スイッチバックを折返していたと思うと、半世紀の時の流れを感じずにはいられません。なお、この(旧)軽井沢駅舎記念館にはEC40(10000)形やEF63 2も保存されており(アーカイブ「EC40(10000)形を見る」参照→こちら)、ともに一見の価値があります。

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十和田観光電鉄 廃止決定。

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▲稲生川沿いを行く約40年前の十和田観光電鉄モハ2405。十和田色として馴染み深かったこの車体塗色は、この写真が撮影された3年前から始まったもの。'73.8 高清水 P:澤田節夫
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今週24日(火曜日)、ついに十和田観光電鉄の「鉄道事業廃止届出書」と「鉄道事業休止届出書」が提出され、同社十和田観光電鉄線(十和田市~三沢間14.7km)が歴史の彼方へと消えてしまうことが確定いたしました。

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▲1986(昭和61)年まで車輌基地は終点の十和田市にあった。木造の1線庫横にはやはり木造の修理工場と鍛冶場設備があった。'78.8 十和田市 P:澤田節夫
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「鉄道事業廃止届出書」では「廃止の理由」を以下のように説明しております。
「十和田観光電鉄線は、大正11年に開業し主に地元の方々の足としてご利用頂いていますが、輸送人員は昭和45年度の165万人をピークにモータリゼーションの進展や沿線人口の減少等の影響を受け年々減少傾向となり、平成22年度では46万人とピーク時の28%程度まで減少しています。
120127n007'78.8.jpg当社では駅無人化やワンマン運転などの経費削減と集客イベントの実施や企画切符の販売等の増収策に努めてきましたが、昭和63年度から営業損益の赤字が続き、平成22年度は2,331万円の赤字となりました。
また設備投資は今後老朽化した施設の機能維持を図るため10年間で総額7億2,000万円程度かかる見込みであります。
以上の状況では今後当社単独での運行維持は困難になると考えられるため、「十和田観光鉄道活性化協議会」に今後の鉄道事業の存続協議及び設備投資への追加支援を要請してきましたが、平成23年10月3日(月)に十和田市・三沢市・六戸町より、当社に対する全面的な支援はできないとの回答を受けました。
この結果を受けて当社は平成23年10月11日(火)開催の同協議会臨時総会において、鉄道事業から撤退し路線バスを運行することで地域の足を確保することを表明し、関係市町村や利用者代表などから代替バスの承認を受けた事から、本日国土交通大臣に対し鉄道事業廃止届出書を提出致しました。」

▲十和田市駅で発車を待つモハ2405。'78.8 十和田市 P:澤田節夫
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▲電車庫側から留置中のクハ4406を見る。後方駅側にはED402の姿も見える。'73.8 十和田市 P:澤田節夫
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▲ED301(左)とワ102(右)。ワ102の車票差しには「休車中」の札が入れられているのが見える。'78.8 十和田市 P:澤田節夫
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▲定山渓からやってきたクハ1207も十和田の仲間に入って馴染んでいた。'73.8 十和田市 P:澤田節夫
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正式な廃止予定日は来年2013(平成25)年1月31日(木曜日)。ただし、これはあくまで書類上で、続く「鉄道事業休止届出書」で本年2012(平成24)年4月1日(日曜日)から翌2013(平成25)年1月31日の間の鉄道事業を「休止」すると届出ておりますので、実質上、本年3月31日(土曜日)が運転最終日となります。

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▲ワム80000を1輌だけ牽いてED402牽引のささやかな貨物列車が行く。電車もさることながら、貴重な2輌の私鉄電機の行く末も気になるところ。'78.8 P:澤田節夫
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先般もお伝えいたしましたが(アーカイブ「十和田観光電鉄 廃止へ」参照→こちら)、1922(大正11)年に開業した十和田観光電鉄線は今年が90周年。そのアニバーサリーイヤーに轍を止めねばならないのは、関係者の皆さんにとってもまさに断腸の思いに違いありません。残された時間はあと60日余り...今週末は澤田節夫さんからお送りいただいた40年ほど前の写真とともに、三本木原台地を走り続けてきた同線に思いを馳せたいと思います。

RMライブラリー『十和田観光電鉄の80年』(岸由一郎著)はこちら

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ワム80000の終焉。

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▲東海道本線吉原駅ホームからの情景。下り本線をEF210の牽く貨物列車が通過してゆく。左には組成を終えたのワム380000が見える。'10.12.11
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来たる3月17日のダイヤ改正関連のリリースの中で、JR貨物からは「新しい輸送サービスのご案内」として東海道本線富士駅の荷役改善が発表されました。曰く...
「富士駅のコンテナホームを広くし、荷役線での取扱両数が増えるようリニューアル改良します。これにより、鉄道コンテナ輸送がより便利になります。また、富士駅の改良により紙輸送については国鉄時代から使用してきた貨車ワム80000形式(有がい車)での輸送を全て終了し、コンテナ列車化により輸送時間の短縮を図ります。」

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▲間もなく見納めとなるワム80000。現存車はすべてコロ軸受化されたブルーの380000番代車。'10.12.11 比奈
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ご承知のように、ワム80000形は1960(昭和35)年から1981(昭和56)年にかけて実に26,000以上も製造されたわが国を代表する15t積み有蓋貨車です。とび色2号に塗られたその姿はまさに全国津々浦々どこでも目にすることができ、そのあまりの輌数にとりたてて注目されることもなく、まさに空気のような存在だったと言っても過言ではありません。

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▲比奈駅には入換用に1928(昭和3)年生まれの古豪501が常駐している。(アーカイブ「残された最後の"川造型"」参照→こちら)ワム80000とのツーショットも余すところ2か月弱。'10.12.11 比奈
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▲吉原駅の岳南鉄道乗り換え跨線橋(左)と比奈駅の本屋(右)。車輌のみならず、岳南鉄道には魅力的なストラクチャーが少なくない。'10.12.11
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岳南鉄道のワム80000列車の現状については本誌1月号参照。→こちら

最盛期にはさまざまな物資別適合車も誕生し、まさに一大ファミリーを形成していましたが、コンテナ化の進捗とともに次第にその数を減らし、JR化後は主に平軸受をコロ軸受に改造した380000番代車が生き残るのみとなってしまっていました。しかし減ったとはいえ2009(平成21)年4月1日現在のJR貨物在籍輌数は520輌。主な用途である紙(新聞・雑誌用紙などの輪転機用ロール紙)輸送の分野ではまだまだそれなりの勢力を保っていたことがわかります。

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▲一昨年10月にコンテナ化されてからも焼島に留置されていたワム380000の38輌も、昨年末に神栖へと配給回送された。'11.12.18 総武本線 小岩 P:大平直人 (RM Newsより)

しかし2010(平成22)年10月の焼島(新潟)発隅田川行き紙輸送列車のコンテナ化など、地上荷役設備の改善とともに2軸有蓋車であるワム80000の優位性はなくなり、ついに冒頭にご紹介したリリースに見られるように、富士駅のコンテナホーム改良にともなって、最後に残された"ワムハチ"たちもこの3月改正でついに終焉を迎えることになります。

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▲再び吉原駅。東海道本線内でワム80000(380000)を観察できる貴重な駅だ。バックの煙突は日本製紙鈴川工場。'10.12.11
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ワム80000形の終焉はそのまま2軸有蓋貨車で組成された貨物列車の終焉でもあります。ヤードを埋め尽くす"ワムハチ"を日常の光景として目にしてきた私たちの世代にとって、ひとつの時代の終わりと片づけるにはあまりに寂し過ぎる気がします。

※明日は不在のため、小ブログは休載とさせていただきます。

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▲やたらと狭いトラバーサー・ピットに90度横を向いたビューゲル...後ろの車輌と重なって一見どうなっているのかわからないが、トラバーサー上には確かにキャブ(?)が。'71.8 千田車庫 P:古村 誠
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先日ご紹介した広島電鉄江波車庫の2輌の単車(アーカイブ「広島電鉄の100形と200形」参照→こちら)をご覧になった古村 誠さんから、広電本社前の千田車庫で見かけた奇妙なトラバーサーの写真をお送りいただきました。あまりに可愛らしいその姿に、添付ファイルを開いた途端に思わず吹き出してしまいそうでした。

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▲これがその正体。まるで明延の"一円電車"を思わせるが、もちろんこれは車輌ではなくトラバーサーの運転室。腰板部は視認性確保のため一部がガラス窓になっているようだ。'71.8 千田車庫 P:古村 誠

メールによれば、古村さんが千田車庫を訪れたのは1971(昭和46)年の8月。突然の訪問にも関わらず、たいへん親切に見学させてくださったそうです。そしてその時に車庫の奥で見かけたのがこのえらく小さなトラバーサーでした。

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▲そのバックビュー。右側壁面にコントローラーが見える。もちろん車輪もビューゲルも車体に対して90度横を向いており、"一つ目"と相まってさながら妖怪「唐傘おばけ」のよう。'71.8 千田車庫 P:古村 誠
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「どう見ても単車サイズ。当時156号や157号もすでに営業運転から退いており、その他の車輌はすべてボギー車の広電、果たしてこのトラバーサーは役にたっていたのでしょうか?」と古村さん。確かにトラバーサーの幅は極めて狭く、かつては単車専用だったのでしょうが、この時点では抜き取ったボギー車の台車を工場内に引き入れるために使われていたようです。

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▲当時の千田車庫全景。近年イベント時に公開された写真を見ると、今なおこの車庫の奥に小さなトラバーサーはあるものの、残念ながら「唐傘おばけ」はもういない。'71.8 千田車庫 P:古村 誠
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それにしても"一つ目小僧"のような正面にボンネット(?)、一丁前に塗り分けられた車体や90度横を向いたビューゲルと、古村さんが「思い出すだけでも思わず微笑んでしまいました」と追想されるのも無理からぬ愛らしさです。
残念ながらこれ以上詳しい情報はなく、さらにご存知の方がおられればご教示いただければ幸いです。

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▲このたび近藤一郎さんが上梓された『新編H.K.ポーターの機関車』と、25年前に刊行された『H.K.ポーターの機関車』(金田茂裕著)。
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かねてより編纂を進めておられるとお聞きしていた近藤一郎さんの『新編H.K.ポーターの機関車』が完成、先日その見本をお送りいただきました。

120123n025.jpgH.K.ポーター社は米国ピッツバーグに本拠を置いた機関車メーカーで、わが国では幌内鉄道が導入した「義経」「弁慶」(1880年/のちの7100形)で一般にも広く知られています。しかし、ポーターの本領は産業用の小型機で、サドルタンク機をはじめとした数々の愛らしいBタンク機やCタンク機が日本の地を踏んでいます。本書は1987(昭和62)年12月に刊行された金田茂裕さんの『H.K.ポーターの機関車』をベースに、遺志を受けて機関車史研究会を継がれた近藤さんがその後の新資料を大幅に加えて改版されたもので、アメリカ本国やカナダに保存されていた図面やワークス・フォト(わが国未発表のもの16枚)も駆使して、日本に渡来したポーター機の全貌を解き明かそうという意欲作です。
▲今回の新編ではシリンダ・サイズの小さいものからソートし直して記述されている。これは最も小さい5"×10"シリンダを持つグループの関東水電栃本発電所工事用機に関する解説頁。 (『新編H.K.ポーターの機関車』より)
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▲先著では触れられていなかった雲山金鑛會社材木運搬軌道(朝鮮/左)なども取り上げられているほか、古くから"謎"とされていた「ランケンハイマー」の謎解きでは小ブログの記事(→こちら)も引用されてその解明を試みられている。 (『新編H.K.ポーターの機関車』より)
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金田さんのプラクティスを継承された1/80形式図は、カナダの科学技術博物館に保存されていた組立図をベースに近藤さん自らが描かれたもので、折込で付録されている9枚の組立図(再製図)とともに、模型ファンにも必ずや歓迎される資料となっています。

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▲巻末には『J.A.マッファイの機関車』追録(左)や『クラウスの機関車追録』の補遺(右)も収録されている。 (『新編H.K.ポーターの機関車』より)
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わが国に来たポーターとして最も小型なのはシリンダのボア・ストロークが5in×10inのカテゴリーですが、そのうちの1輌が関東水電栃本発電所建設工事に使用された製番6567(1920年)で、本書ではこの機関車がのちに昭和電工㈱秩父工場専用軌道で再起したことを解明されています。この昭和電工㈱秩父工場専用軌道の機関車については、記事を拝読すると小ブログ(アーカイブ「影森、魔境の残り香」参照→こちら)が多少なりとも謎解きのお役に立てたようで、私としても実に嬉しい限りです。

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▲圧巻は折込で収録された9枚の組立図。横浜税関5"×10"シリンダ機から北海道炭砿鉄道の14"×18"シリンダ機(国有化後の4000形)までが収められている。 (『新編H.K.ポーターの機関車』より)
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本書の巻末には既刊書『マッファイの機関車』の追録、さらには近藤さんの前著『クラウスの機関車追録』への補遺・訂正記事も収録されており、マッファイについては越後鉄道1~5(国有化後の1630形など)、近江鉄道5~7のオリジナル組立図も折込となって添付されています。
215×280㎜サイズで全137頁。価格は8,400円(送料込)と高価ではありますが、日本の車輌史研究のレベルの高さを象徴する一冊としてお勧めしたいと思います(郵便振替00940-3-21848 加入者名:近藤一郎)。なお、先著『H.K.ポーターの機関車』(8,000円)と同時購入の場合は、送料込で16,000円(ただし在庫限り)となるそうです。

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▲ビュフェのみでスタートした新幹線にも岡山開業後の1974年から食堂車を連結。「帝国ホテル列車食堂」や「ビュフェとうきょう」という会社名を懐かく思われる方も多いのではないだろうか。右頁のように洋食中心のメニューだったが、JR化直後にはにぎり寿司を提供する列車もあった。 (RM LIBRARY『日本の食堂車』より)
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1999年(平成11)年8月にスタートを切って以来足掛け13年、ついにRMライブラリーが150巻を迎えました。東海道新幹線が開業した1964(昭和39)年以前にルーツを持つ日本国内の鉄道車輌、路線を中心に毎月ワンテーマでお送りしてきたこのシリーズですが、正直言ってここまで到達できるとは思っていませんでした。これも一重にご執筆いただいた著者の皆様、また写真・資料のご提供などご協力いただいた夥しい協力者の皆様、そして何よりも本シリーズを支えて下さった読者の皆様あってこそと、あらためて感謝申し上げます。

120120nrml150h1s.jpgさて、先日もお知らせしましたように、第150巻を迎えた記念すべきライブラリーは、鉄道友の会客車気動車研究会の方々による『日本の食堂車』をお届けします。
日本の食堂車の歴史は1899(明治32)年、当時の山陽鉄道(現在の山陽本線)が京都~三田尻(現・防府)間の急行列車に連結されたのが最初とされています。これは瀬戸内海航路に対向したサービスで、一等車との合造車であったことからも判るように、優等客向けのサービスでした。2年後の1901(明治34)年には官設鉄道も東海道本線での食堂車連結をスタート、次第に食堂車は全国へと広まるとともに、1906(明治39)年にはビュフェの原型とも言えるカウンター形式の和食堂車も登場し、大衆にも広く利用されるようになっていったのです。

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▲左頁上に見えるのが日本初の食堂車である山陽鉄道1227〜の形式図。1等車に併設されるもので、この時点では食堂の席数は6と非常に少なく、限られた人向けであったことが判る。 (RM LIBRARY『日本の食堂車』より)
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戦時下には一旦営業を中止した食堂車でしたが、戦後、特急列車の運行再開とともに食堂車もいち早く復活、当初は戦前の重厚な3軸食堂車を再整備したものでしたが、1951(昭和26)年には戦後初の新製食堂車マシ35が登場、さらにビジネス特急「こだま」の登場とともにビュフェが登場、昭和30年代は全国津々浦々の長・中距離列車に食堂車・ビュフェが連結されるようになりました。しかし、その後、急行「きたぐに」での火災事故、そして食堂営業そのものの採算がとれないことから次第に連結の中止や営業休止するものが増えていきました。現在、食堂車を連結するのは「北斗星」「カシオペア」そして「トワイライトエクスプレス」の3列車のみになってしまったのはご存知の通りです。

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▲戦後〜昭和30年代に配布されたメニューの数々。全国津々浦々を結ぶ列車に食堂車が連結されていたことを示すものだ。 (RM LIBRARY『日本の食堂車』より)
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▲151系でスタートしたビュフェは、急行電車でも取り入れられ、それまでの客車食堂車に取って代わった。中でも特徴的だったのが東海道の電車急行における「寿司カウンター」。上のメニューからは寿司以外にも多種多様なメニューを小さなカウンターから提供していた事が読み取れよう。 (RM LIBRARY『日本の食堂車』より)
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本書は鉄道友の会客車気動車研究会のメンバーが永年の研究の成果をまとめられたもので、日本初の食堂車である山陽鉄道1227〜から、現在最新の「カシオペア」用マシE26‐1まで、日本の食堂車112年間の歩みを通観した、これまでにない書籍と言えます。もちろん、客車のみならず、気動車、電車、新幹線も収録。車輌の外観写真はもちろんのことながら、その車内、そして代表的なメニューなどもできる限り掲載しています。また、巻末には国鉄/JRに在籍した全ての食堂車を網羅した車歴表も収録しております。

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▲「動くホテル」とうたわれた20系寝台車の食堂車ナシ20形。中でも日立製のものは外部のデザイナーに依頼したという現在見てもきわめて斬新な意匠だった。 (RM LIBRARY『日本の食堂車』より)
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実は本書は、当初、全96頁の予定で進行しておりましたが、編集進行中に多数の新資料や新事実などが発掘されたことから、RMライブラリー史上最大の全112頁に変更いたしました。非常に盛りだくさんな内容でお届けする第150巻記念号、是非、書架にお揃え下さい。

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▲「ひかり」520号、300系での運行最終日。'12.1.8 新横浜-品川 P:塩冶拓巳 (「今日の一枚」より)
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すでにお伝えしたように、この3月ダイヤ改正をもって東海道・山陽新幹線で活躍してきた100系・300系新幹線が運転を終了します。100系は初代0系以来実に21年ぶりに開発された新形式で、1985(昭和60)年の登場。一方、300系は1992(平成4)年に誕生した「のぞみ」で颯爽とデビューを飾った新系列新幹線で、私たちの年齢にとっては両者ともについ先日登場したように思えますが、100系で27年、300系で22年(試作車登場時から)の歳月が流れていることになります。

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▲まもなく、運用離脱!! 新春を走り抜けました。'12.1.2 品川-新横浜 P:井口博元 (「今日の一枚」より)
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この100系と300系の引退を記念して、昨日JR西日本から最終運転の詳細が発表されました。最終運転日はダイヤ改正前日の3月16日で、100系、300系とも臨時列車として運転され、また同日には最終列車の運転にあわせたイベントも実施されます。

120119n008.jpg.jpg最終列車の運転
■100系新幹線
○最終運転日
 2012(平成24)年3月16日
○最終列車
 臨時「ひかり445号」 岡山発博多行
 全車指定席(6輌)で運転
○停車駅及び運転時刻
 岡山11:43→広島12:46→徳山13:27→新山口13:43→小倉14:09→博多14:29
■300系新幹線
○最終運転日
 2012(平成24)年3月16日
○最終列車
 臨時「のぞみ609号」 新大阪発博多行
 全車指定席(16輌)で運転
○停車駅及び運転時刻
 新大阪10:52→新神戸11:06→岡山11:40→広島12:19→小倉13:10→博多13:28
※「ひかり445号」と「のぞみ609号」は、岡山駅の新幹線下りホーム(21番線、22番線)で並んで停車する。

▲通過線を堂々と駆け抜けて行きました。'12.1.9 浜松 P:丸山賢一 (「今日の一枚」より)
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★最終列車の運転にあわせたイベント
①車内でのイベント
 ○記念乗車証の配布
  記念乗車証を、岡山―広島駅間の車内で配布する。
 ○車内チャイムの変更
  駅の出発時・到着時に流れる車内チャイムを、100系新幹線はJR発足時のメロディに、300系新幹線は「のぞみ号」の営業開始時のメロディに、それぞれ変更する。
②駅でのセレモニー
 新大阪駅、岡山駅、広島駅、徳山駅、新山口駅、博多駅の各駅で実施。詳細は後日発表。
★きっぷの発売
最終列車は100系新幹線・300系新幹線ともに全車指定席で運転。最終列車のきっぷは2012(平成24)年2月16日の午前10時から発売を開始。きっぷの購入は駅のみどりの窓口やインターネット予約などにて。また日本旅行では、最終列車を利用した旅行商品の発売を予定。
★その他
山陽新幹線内の定期列車の最終列車は、以下を予定(車輌運用などの都合により変更となる場合がある)。
 ○100系新幹線:2012(平成24)年3月14日運転の「こだま766号」
 ○300系新幹線:2012(平成24)年3月13日運転の「こだま727号」

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▲「こだま」号原色100系同士が停車中にN700系が追い抜いていく。'12.1.16 新下関 P:藤井義久 (「今日の一枚」より)
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なお、本誌最新号誌上でも詳しくお伝えしておりますが、これより一足先にJR東海の300系ファイナルランが発表となっております。最終走行は3月16日(金)の東京発新大阪行き臨時「のぞみ329号」で、この列車が「ありがとう300系」のぞみ号としてJR東海車のファイナルランとなります。列車は全車指定席で運転(指定席の発売は2月16日より)、同列車に乗車した方には新横浜―京都間の車内で乗車記念品が配布される予定です。なお、運転当日には東京駅で出発式、新大阪駅で引退式も実施されます。
○運転時刻
東京10:47→品川10:54→新横浜11:06→名古屋12:32→京都13:08→新大阪13:23

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▲ヘッドマークとサイドステッカーの車体装飾イメージ。提供:JR東海

また、2月17日からはJR東海所有の300系車輌にヘッドマーク、サイドステッカーによる車体装飾が行なわれます(サイドステッカーは乗車口付近に約2輌おき)。
○車体装飾を施したJR東海300系車輌の運転日
2月17、24日:「のぞみ343号」 東京12:20→新大阪14:56
2月17、24日:「のぞみ388号」 新大阪18:20→東京20:56
2月24日  :「のぞみ371号」 東京15:13→新大阪17:50
2月24日  :「のぞみ406号」 新大阪20:27→東京23:03
3月3日   : 団体専用列車  東京 8:23→新大阪11:00
3月10日  : 団体専用列車  東京 7:37→新大阪10:33
3月10日  : 団体専用列車  新大阪11:43→東京14:20
3月16日  :「のぞみ329号」 東京10:47→新大阪13:23
※「のぞみ343号」「のぞみ388号」「のぞみ371号」「のぞみ406号」は、車輌運用の都合で急遽変更となる場合がある。

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▲去っていく300系に「ありがとう」。'12.1.7 豊橋-浜松 P:丸山賢一 (「今日の一枚」より)
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▲小学生以下の子どもたちと親御さんによって行われ大好評だった「電車と綱引き」。'11.11.3 仏生山 P:宮武浩二
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すでに昨年11月のことになりますが、第10回となる「ことでん電車まつり」が開催され、お出でになった宮武浩二さんから興味深いレポートを頂戴しております。だいぶ時間が経ってしまって恐縮ではありますが、ここでご紹介させていただきましょう。
以下、宮武さんのレポートです。

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▲仏生山のマスコット的存在のデカ1も一般公開された。'11.11.3 仏生山 P:宮武浩二
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120118n008.jpg以前の琴電をよく知るもの者としては、最近の車種統一化は利用しやすい反面、面白さには少しかけてしまっているのが残念です。しかしその中でもよくよく見ればいろんなものが遺構として残っているのが見て取れます。電車としては廃車になっているものの、部品が今も活躍していたりしており、探し出す楽しみは今も健在です。
▲工場内で見かけたブリル台車(左)。これは名鉄からきたもので、琴電で改軌したもの。'11.11.3 仏生山 P:宮武浩二
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▲近鉄5623号(琴電23)に残る彫刻。大鉄デロ23号がルーツ。右は名鉄3700系(琴電1031~1036)に使用されたいた転換クロスシート。'11.11.3 仏生山 P:宮武浩二
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この日はデカ1も公開されていましたが、簡素な運転台と不思議な台枠が気になります。元は鉄道省の無蓋貨車の台枠を延長して製作したもので、台枠には穴が多く見受けられます。貨車は詳しくないので細かくはわかりませんが、どこから継いだのか気になります。恐らくは運転台のところが延長されたものだと思います。

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▲なぜか一部が欠き取られたデカ1の自動連結器。こんな些細な点も発見のひとつ。'11.11.3 仏生山 P:宮武浩二
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このデカ1(デカ形1)の種車は1320号です。文献やウェッブ上にはワフ形の台枠を利用という記事もありますが、私が最初に見た1968(昭和43)年当時、ワフ形の車体はすべて現存していたので、これは間違いです。それと連結器の一部を欠き取ったのも理由があるのでしょう。

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▲きわめてシンプルなデカ1の運転台。3年ほど前に全面的に更新修繕が行われている。'11.11.3 仏生山 P:宮武浩二
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このデカ1についてはかつて小ブログでもご紹介したことがありますが(アーカイブ「高松琴平のデカ1」参照→こちら)、その時点と比較すると全般的に更新工事が行われたようで、ボールドウィンタイプの台車も履き替えられてしまっています。時代とともに変化してゆくこんな点を探し出すのも楽しいものではないでしょうか。

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▲313系と顔を並べる「富士山トレイン117」。前面に大型のヘッドマークを掲出するため、専用のステーが取り付けられている。'12.1.12 沼津 P:RM(小野雄一郎)
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JR東海では、1月28日(土)から3月4日(日)までの土・休日に臨時快速列車「富士山トレイン117」を静岡―御殿場間で一往復運転することを発表しましたが、同列車に使用する編成の報道公開が先日行われましたので、その模様をお伝えいたしましょう。

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▲「富士山トレイン117」を4号車側から見る。特製ヘッドマークに、冬の富士山をイメージしたラッピングがなされているのが特徴。'12.1.12 沼津 P:RM(小野雄一郎)
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「富士山トレイン117」には"トレイン117"としておなじみの大垣車両区所属の117系S9編成〔クハ116-203(1号車)+モハ116-45(2号車)+モハ117-45(3号車)+クハ117-23(4号車)〕が充当されますが、冬の富士山をイメージしたラッピングが施され、特製ヘッドマークを掲出しているのが特徴です。

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▲1・3・4号車はクロスシートの背もたれを外してテーブルを設置し、ゆっくりとくつろげる対面式シートとなっている。'12.1.12 沼津 P:RM(小野雄一郎)
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▲2号車「ウィンディスペース」では、車内中央部のクロスシートを撤去して窓向きのベンチが取り付けられているほか、乗降扉を開放して展望柵が設けられている。なお、展望柵から妻面側は1・3・4号車と同様の対面式シートとなっている。'12.1.12 沼津 P:RM(小野雄一郎)
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1・3・4号車の車内には大型のテーブルが配置され、ゆったりとした環境で飲食などが楽しめるほか、2号車は「ウィンディスペース」として窓向きにベンチを配置し、乗降扉の代わりに展望柵を設けるなどして、乗客が沿線の景色を楽しむことができるように設計されていることが目を引きます。なお、乗客は2号車を自由に利用することができます。

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▲2号車の展望柵部分を車外(左)と車内(右)から見る。側面行先方向幕の隣にも「Train 117」の文字がラッピングで描かれている。'12.1.12 沼津 P:RM(小野雄一郎)
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このほか、「富士山トレイン117」の往路(上り・御殿場行き)の乗客には沼津駅出発後に特製の「記念乗車証」と特製ストラップがプレゼントされるほか、運転開始日の1月28日には御殿場駅で「ミス富士娘」による歓迎や湯茶のおもてなしが行われます。また、(株)ジェイアール東海ツアーズによる記念旅行商品「『富士山トレイン117』で行く御殿場の旅」の販売なども開始されています。

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▲4号車側面のラッピングの文字「Mt.fuji train」のアップ(左)。同様のラッピングが1・3号車にも描かれている。一方、1・3・4号車と異なり、2号車側面には「Train 117」の文字が中央部に大きく描かれている(右)。'12.1.12 沼津 P:RM(小野雄一郎)
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現在、371系「あさぎり」の引退を控えて、御殿場線沿線には名残を惜しむ多くのファンの姿が見られますが、117系が御殿場線を走ることも珍しく、「富士山トレイン117」もぜひ撮影・乗車プランに練りこんでみてはいかがでしょうか。

■「富士山トレイン117」運転時刻
往路:静岡7:50→清水8:03→富士8:27→沼津9:00→裾野9:15→御殿場9:33
復路:御殿場14:12→裾野14:32→沼津14:50→富士15:10→清水15:33→静岡15:45
※往路(上り・御殿場行き)は東田子の浦駅でしばらく停車するので富士山を鑑賞することが可能。ただし、ドア扱いは行わない。
※全車指定席の快速列車のため、乗車券のほかに指定席券(510円)が必要。
※指定席券は、乗車日の1ヶ月前の午前10時から全国の主要JRで発売。

取材協力:東海旅客鉄道株式会社

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広島電鉄の100形と200形。

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▲江波車庫で仲良く顔を揃えた100形101号(左)と200形238号(右)。まさに"和"と"洋"の2軸単車の顔合わせ。'10.6.27 江波車庫
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軌道線6路線19㎞と鉄道線16.1㎞を擁する広島電鉄は、路面電車としてはわが国随一の規模で、そこを走る車輌のバラエティーでも群を抜いていると言えるでしょう。中でも興味深いのは営業運転に入る「単車」が2形式(100形、200形)も在籍していることで、多種多様な連接車とともに"広電"の大きな魅力となっています。

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▲100形101号のプロフィール。屋根上には実用のZパンタとともにダミーのダブルポールも備わる。'10.6.27 江波車庫
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▲モニター窓からの明かりが印象的な車内(左)。右はオープンデッキ部に位置する運転台で、雨天の場合は運転を見合わせるという。'10.6.27 江波車庫
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いささか旧聞となりますが、一昨年、江波(えば)車庫に伺った際、電車カンパニーさんのご案内で100形と200形をつぶさに見せていただくことができました。オープンデッキにモニタールーフ、さらに棕櫚縄製の救助網と古色蒼然とした100形101号は、当然戦前製の木造単車かと思いきや、実は1984(昭和59)年生まれのレプリカ。イベントに合わせて開業時の木造単車A形(初代100形)を再現すべく新製されたもので、一見木製に見える車体は鋼板に羽目板調の筋彫りをしたもので、屋根上のダブルポールも巧妙に再現されたダミーです。

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▲101号のサイドビュー。台車はオリジナルのブリル21Eに対して150形発生品の日車S12形を履いており、ホイールベースが長い。'10.6.27 江波車庫
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車内に目を転じると、鎧戸をはじめ木製で新製された部分と、防火対策のためアルミデコラ製とされた天井などが違和感なく共存しているのに驚かされます。それにしても、ディスプレイモデルならともかく、実際に「車輌」として車籍を有しているというのは何とも夢のある話ではないでしょうか。
ちなみにこの101号は「大正形電車」として4月~10月の土日・祝日に、8号線(江波~横川間)を2往復(雨天時等は運休)しております。

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▲「ハノーバー」電車こと238号。ホイールベースに対して車体のオーバーハングが長く、車体前部を絞ってあるのがいかにもヨーロッパ車。'10.6.27 江波車庫
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"純和風"なこの100形と好一対なのが「ハノーバー電車」こと200形です。この200形238号はそのエキゾチックな外観からも一見してわかるように、ドイツのハノーバー市より寄贈されたもので、車体長11mあまりと、わが国の単車としては異例な"長身"です。1988(昭和63)年に姉妹都市提携5周年を記念して来日したもので、わが国の保安基準に則った手直しを施したうえで車籍を取得、現在ではこちらも「レトロ電車」として、オープンデッキの100形が走れない冬期間(11月~3月)の日曜・祝日にやはり8号線で運転されています。

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▲238号のサイドビュー。窓はすべて固定窓で夏場は運用に入らない。腰板部には姉妹都市ハノーバーからのメッセージが描かれている。'10.6.27 江波車庫
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江波車庫にはこのほかにやはり単車の150形156号が在籍しています。「被爆電車」として知られる同車は、いったんは廃車・除籍となったものの、1987(昭和62)年に再整備のうえ復籍したもので、復元、外国車、復籍とそれぞれ違った来歴を持つ3輌の単車が仲良くこの車庫に集っていることになります。

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▲三弦橋を行く工事列車。1962年頃 安藤文雄氏撮影(提供:三菱大夕張鉄道保存会)
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小ブログでもたびたびご紹介している旧下夕張森林鉄道夕張岳線の「三弦橋」(鋼重450t・全長381m)を登録文化財として末永く保存しようと、年の瀬も押し迫った12月22日、三菱大夕張鉄道保存会が北海道産業考古学会、夕張地域史研究資料調査室などと共に、夕張市や北海道、北海道開発局に申し入れを行いました。

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▲夕張岳山麓より木材を搬出した下夕張森林鉄道。下夕張6㎞地点を行く列車。1952年頃 夕張地域史研究資料調査室蔵
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夕張市東部の鹿島・南部地区は、石炭とともに森林資源も豊かな地域で、昭和10年代より三菱大夕張鉄道の大夕張炭山、南大夕張駅に接続するかたちで、夕張岳山麓一帯から伐採された木材輸送を担うため、主夕張・下夕張森林鉄道(1934~1966年)が敷設されました。そしてこの路線の一部が大夕張ダム建設で湖底に沈むことになり、1958(昭和33)年に移設・架設されたのがこの三弦橋です。 しかし、輸送の担い手がトラックに代わる中、夕張岳線は1963(昭和38)年に廃止。三弦橋は僅か6年しか実用されなかったことになります。

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▲白銀の三弦橋。幻想的な光景が広がる。'10.1.4 P:三菱大夕張鉄道保存会
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上弦材が1本、下弦材が二本と四角錘を連続させた独自の構造と、あかね色の7連のデザインがシューパロ湖に映える様子は地元市民に愛され、「絵はがき」や郵便局の風景印に登場するなど、地元のランドマーク的存在となっています。しかし来たる2014(平成26)年に試験湛水が始まる予定の「夕張シューパロダム」によって湖底に沈む運命となってしまい、三菱大夕張鉄道保存会が中心となってその保存・利活用の途を探っています。

120113n001.jpg当日、要望書を鈴木直道夕張市長に手交して、「独特の構造と造形美は世界的に希少で、景観的にも貴重」(北海道産業考古学会山田大隆会長)、「鉄道の三弦橋は世界に3例しかなく、他の2例はいずれもドイツ。市が財政難の中でも歴史遺産に配慮すれば市のPRになる」(土木学会北海道支部進藤義郎顧問)と説明し、併せて「現在休館中のSL館についても所蔵する車輌や関連資料を管理・保存し、夕張市石炭博物館と一体的に活用」するよう申し入れが行われました。
▲鈴木夕張市長へ要望書を手渡す。'11.12.22 P:三菱大夕張鉄道保存会
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三弦橋については、1995(平成7)年度から大夕張ダムの155m下流でさらに大規模な夕張シューパロダムの建設が始まり、完成後は大夕張ダム、三弦橋ともに水没することが明らかですが、文化財に指定され、渇水期にはその美しい姿を産業遺産としてまた湖面に現すことを多くの市民が祈っています。

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▲左/完成間もない頃の三弦橋。1962年頃 菅原健一氏撮影(提供:三菱大夕張鉄道保存会) 右/南大夕張駅に隣接した大夕張営林署南部貯木場 1963年頃 (RMライブラリー『三菱鉱業大夕張鉄道』より)
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忙しい中、対応いただいた鈴木市長からは「市民に愛されてきた地域の文化財をいかに保存していくかは私の公約でもある。現状を確認して適切な対応を検討する」と前向きな回答がなされたとのことで、今後の展開が注目されます。

なお、3月25日(日)にはアディーレ会館ゆうばり(夕張市本町4丁目)で、創作劇「三弦橋まで」が上演され、また三菱大夕張鉄道保存会とNPO法人・炭鉱の記憶推進事業団が3月中旬よりJR清水沢駅で、写真展「虹橋(こうきょう)~湖底に沈む橋の記憶」を開催する予定だそうです。

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▲昨年の雪下ろしツアーのひとコマ。'11.2.13 P:三菱大夕張鉄道保存会
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また、例年にない大雪の夕張市ですが、SL館については今年も1月29日(日)に夕張鉄道の協力により、恒例の雪下ろしバスツアーが企画されています(昨年の様子はアーカイブ「雪下ろしツアー無事終了」参照→こちら)。参加費は昼食・温泉入浴が付いて3,000円。企画した三菱大夕張鉄道保存会では今年も多くの皆さんが"助っ人"を買って出てくれることを期待しています。

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▲今年の雪下ろしバスツアーのフライヤー。今回もSL館の特別見学が組まれている。
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▲滝頭工場入換機のサイドビュー。ほとんど台車そのものに車体を載せたその姿は実に漫画チック。'72 滝頭工場 P:古村 誠
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小ブログで話題となった「テーブル向」(アーカイブ「"テーブル向"の素性判明」参照→こちら)や、阪堺我孫子道車庫のTR1・TR2(アーカイブ「41年前のTR1とTR2参照→こちら」をご覧になった古村 誠さんから、横浜市電滝頭(たきがしら)工場の入換機の画像をお送りいただきました。昨年12月初めにいただきながらすっかり時間が経ってしまいましたが、たいへん貴重な記録ですので改めてご紹介してみましょう。

yokohamashiden003.jpg「テーブル向」や「我孫子道車庫の入換機」のこと、興味深く拝見しました。特に我孫子道の車庫は私も35年ほど前に訪問した経験があり懐かしく拝見しました。
ところで、横浜市電の滝頭車庫にも同種の入換機(車輌移動機)がいました。写真をお送りしますのでご覧いただければ幸いです。廃止直前の1972(昭和47)年1月から3月にかけて撮影したものです。都電車庫でも同様の入換機を見た記憶がありますが、残念ながらこちらは写真が見つかりませんでした。


▲3枚窓のキャブ正面はなかなか立派。ビューゲルは汎用品の流用と思われる。'72 滝頭工場 P:古村 誠
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この入換機は滝頭の横浜市交通局工場の構内専用に作られたもので、RMライブラリー『横浜市電(下)』(→こちら)によれば、履いていた台車は1200形のものと思われるKLD13。台車枠とほとんど同じ車体の片端にまるで小屋のようなキャブが設けられ、その屋根には風呂場の椅子のようなささやかな櫓の上にビューゲルが載っています。牽引機として制動力が必要なためでしょうか、一丁前に空気制動を装備しており、荷台に相当する部分には空気圧縮機と空気溜めが置かれていました。

yokohamashiden002.jpg横浜市電廃止時までその姿を保っていたようですが、なにせ車輌としての車籍がないため、その出生も廃車も定かではありません。いずれにせよ、横浜市電の廃止(1972年3月)とともに消えていったようです。なお、古村さんのお手紙にある「都電車庫でも同様の入換機...」は、芝浦にあった東京都交通局「電車両工場」(電車車両工場ではない点に注意)の「工1」形と思われ、こちらについては東京都交通局発行『都営交通100周年都電写真集 都電』(→こちら)をご参照ください。


▲後部の荷台に相当する部分には空気制動関係の機器が載せられている。前後ともに灯火の類は装備されていない。'72 滝頭工場 P:古村 誠
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ところで、上記記事でもお気づきのように、今年は横浜市電が廃止されてから40年。これを記念して今月28日(土曜日)から横浜都市発展記念館で特別展「横浜にチンチン電車が走った時代」が開催されます。素晴らしく立派な図録も発行される予定で、ぜひこの機会に、市電の残り香のする街・横浜に足を運んでみられてはいかがでしょうか。

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吉村光夫さんを偲んで...。

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▲会場正面からは吉村さんご自慢のスクラッチビルド模型たちと、模型運転会で満面の笑みを見せる吉村さんの遺影が賑やかな「偲ぶ会」を見守っていた。'12.1.8
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早いもので吉村光夫さんがお亡くなりになって一年の歳月が流れてしまいました。昨年1月3日、最も愛された京浜急行に乗って川崎大師に初詣にお出かけになられた直後に体調を崩され84歳で急逝されましたが、今になってお聞きしたところでは、心臓ペースメーカーの電気的トラブルだったとのことですから何とも残念でなりません。

yoshimurasan005n.jpg一周忌を機にその吉村さんを偲ぼうと、生前に親交の深かった楠居利彦、久保 敏、齋藤 晃、杉山裕治、髙井薫平、西尾恵介、長谷川 明、山田修平の各氏が世話人となって、「吉村光夫さんを偲ぶ会」が去る1月8日に東京・高田馬場のビッグボックスで開催されました。

→「偲ぶ会」ではカラー16頁の冊子『名優 吉村光夫 生涯の記録』が配付された。

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▲挨拶に立たれる奥様・康子さん。結婚披露宴の際、司会をお願いしていた同僚アナウンサーが急遽出席できなくなり、新郎の吉村光夫さん自らが司会も兼任したという...いかにも吉村さんらしいエピソードに会場が沸いた。'12.1.8
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吉村さんは1926(大正15)年のお生まれ。慶應義塾大学工学部を卒業後、日本放送協会(NHK)に入社、ラジオ東京(のちのTBS)の創設とともに転じ、「夕焼けロンちゃん」(1978~1982)をはじめとする番組でお茶の間の人気を集めました。趣味の世界では自作と走行性能に拘った0番模型を精力的に作り続けられ、「山の手急行電鉄」というご自身の創作鉄道が模型誌の誌面を賑わせたのをご記憶の方も多いのではないでしょうか。

120111n01.jpgまた、「鉄道友の会」の要職を歴任され、「日本鉄道模型の会」(JAM)の2代目会長や、母校の「鉄研三田会」の3代目会長をお務めになるなど、鉄道趣味の発展と後進の育成に尽力され、その親しみやすいお人柄から、いつも多くのお仲間に囲まれておいででした。

▲小誌宛にお送りくださった最後の原稿(本誌2011年4月号№331「京浜間鉄道"曙"の頃」参照)の実物(画面手前)も展示された。
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▲『名優 吉村光夫 生涯の記録』より。1970年代TBSの「ロンちゃん」として一世を風靡していた頃(左)や、「つばめ」のマイテ39との記念写真(右)など、その歩みをビジュアルにまとめたメモリアル記念誌(非売品)。

それだけに当日は実に137名の方が集われ、改めてその幅広い親交を実感いたしました。当日は世話人の皆さんが数多くの写真を集めて製作された記念冊子『名優 吉村光夫 生涯の記録』が配付され、一頁毎に溢れる吉村さんの笑顔に、お元気だった頃の姿がまるで昨日のことのように蘇ってまいりました。

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▲電気工学がご専門の吉村さんは最後までスクラッチビルドにこだわられた。会場には使い倒した感のある愛用の工具類も展示された。
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鉄道に留まらない幅広い交遊と博識は、まさに趣味界の宝と言っても過言ではありませんでした。改めてご冥福をお祈りいたします。

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河東線 あの頃。

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▲河東線の屋代駅ホームは信越本線と跨線橋で結ばれており、古色蒼然としたホーム上屋が印象的。この光景は「屋代線」と「しなの鉄道」となった今でもほとんど変わっていない。'79.9.9 屋代
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この3月17日のJRダイヤ改正では、寝台特急「日本海」、夜行急行「きたぐに」の廃止、100系・300系新幹線や371系の引退、ワム80000による貨物列車の消滅など、長年慣れ親しんできた列車や車輌との惜別が予定されています。またダイヤ改正とは別に、中小私鉄の世界でも十和田観光電鉄の廃止が大きな話題となっているのはご存知の通りです(アーカイブ「十和田観光電鉄 廃止へ」参照→こちら)。

111218nyashiro044.jpgそしてもうひとつ、長野電鉄屋代線も3月末をもって運転を終えようとしています。屋代線は屋代~須坂間24.4㎞。昨年3月25日付けで鉄道事業廃止届出書が国土交通省北陸信越運輸局に提出され、本年4月1日からバス転換される予定です。「屋代線」...確かに現在は屋代線が正式名称なのですが、私たちの世代にとっては伝統の線名である「河東線」の方が馴染み深くしっくりとくる気がして、今回のタイトルはあえて「河東線」とさせていただきました。
▲屋代駅ホームの乗り場案内表示には木島の文字も見える。リベットの並ぶ側面には戸閉車側灯が鈍い光を放っている。'79.10.15 屋代
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▲70年代後半の屋代線は生え抜きのモハ600形が主力だった。H
ゴム化されたとはいえ、トラス棒の目立つ下回りとリベット止めの重厚な川造製車体は格別の存在感を感じさせた。モハ611+モハ603。'79.9.9 屋代

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屋代~須坂間は1922(大正11)年に河東鉄道が開業したもので、長野電鉄の路線としては最も古く由緒ある区間です。3年後には須坂~木島間を延長、さらにその翌年には電化されていますから、今年は開業90年、電車運転開始86年にあたります。ちなみに河東鉄道の「河東」とは千曲川の東(右岸)を示し、わずかに遅れて須坂~権堂間を開業した長野電気鉄道と1926(大正15)年9月に合併して長野電鉄となりましたので、河東鉄道を名乗ったのはわずか4年ほどということになります。

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▲岩野駅に到着した正面窓がHゴム化されていないモハ603。4輌在籍したモハ600形(610形)の中でこの603だけが譲渡されることなく廃車されてしまった。'79.10.15 岩野
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長野電鉄となってからもこの経緯を踏襲して屋代~木島間は河東線と称していましたが、2002(平成14)年の信州中野~木島間の廃止に合わせて屋代~須坂間は「屋代線」と名称変更されました。運転系統から考えれば当然で、なおかつ通称としては屋代線が一般的となっていましたので無理からぬことでしょうが、1970年代後半に足しげく通った身としてみればやはり残念な思いがいたします。

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▲当時の河東線はタブレット閉塞を使用していた。しかも上野からの直通急行「志賀」が河東線を経由して湯田中まで乗り入れるため、通過用のタブレット授受器が備えられているのが見える。'79.10.15 雨宮
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▲趣あるストラクチャーの数々も河東線の魅力だった。ちなみに、ここ雨宮は川中島の合戦時、あの「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る」で知られる雨宮の渡しがあったところ。'79.10.15 雨宮
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そう、1970年代後半、なぜか河東線を幾度となく訪れています。多くは上田交通別所線と兼ねての訪問でしたが、すでに「丸窓電車」として人気を博しつつあった別所線に比して河東線は訪れるファンも少なく、千曲川河畔のゆったりとした風景と相まって地方電車をのんびりと鑑賞するにはもってこいの路線だったといえます。

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▲上杉謙信が本陣を構えたという妻女山から須坂行きのモハ1500を見下ろす。彼方には千曲川、そして川中島の古戦場が見渡せる。'79.10.15 岩野-象山口
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当時の河東線屋代方の主力は自社発注のモハ600形でした。モハ600形(もとデハ350形)は1927(昭和2)年川崎造船兵庫工場製の全鋼製車で、合計4輌が在籍していました。腰板の広いリベットだらけの重厚、いや言い方を変えれば鈍重な車体はいかにも川造で、横型ガイシの巨大なパンタグラフと床下のトラス棒も風格を増すのに一役買っていました。

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▲長野電鉄特有の乗り場案内が下がった象山口駅ホームの待合室。(アーカイブ「信濃竹原駅を訪ねる」参照→こちら)。'79.10.15 象山口(再掲)
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のちに人気を博すモハ1500形も当時はまだまだ脇役的存在で、このモハ600の活躍が河東線に幾度も足を向けさせる大きな要素になっていました。ところがその活躍も70年代とともに終わり、1980(昭和55)年には2500系(旧東急5000系)に追いやられるかたちで運用を離脱、うち3輌(604・611・612)は上田交通に転じ、これとともにいつしか私の河東線通いも立ち消えとなってしまいました(旧型車時代の長野電鉄については宮田道一さん、村本哲夫さんによるRMライブラリー『長野電鉄 マルーン時代』をご参照ください)。

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▲モハ600たちの活躍はこの写真の翌年、1980(昭和55)年には終焉を迎え、それと同時に足が遠のいていってしまった。'79.10.15 雨宮ー岩野
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あの千曲川東岸をゆく「河東線」から電車の姿が消えるまであと80日。機会があれば最後にもう一度訪ねてみたいものです。

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明けましておめでとうございます。

本年も皆さんにとって、そして鉄道趣味にとって実り多い一年となることを祈念いたしまして、年頭のご挨拶とさせていただきます。

なお小ブログは連休明けの10日(火曜日)より再開する予定にしておりますので、どうか本年も、本誌ともどもかわらぬご愛読のほどをお願い申し上げます。

2012年元旦

編集長:名取紀之 敬白

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