▲水明公園に保存されている71号。残念ながら高いフェンスと植え込みに阻まれてきれいに全景を写し込むことはできない。'10.6.4 P:宮武浩二
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東京のファンにとっても、阪神国道線と聞けば真っ先に思い浮かぶのが"金魚鉢"こと阪神71形です。第二次流電(モハ52)と同じ1937(昭和12)年に誕生した71形は、その巨大な側窓と独特の流線型の形状が"金魚鉢"のデザインを連想させたのか、後継の91形、201形を含め、いつしか"金魚鉢"が愛称となって定着してしまっています。
戦前の軌道線用車輌の中でもひときわ異彩を放つこの71形は汽車会社と川崎車輌で10輌が製造されましたが、現在でも保存が確認されているのは尼崎の水明公園と蓬川公園に展示されている2輌のみです。RMライブラリー『全盛期の大阪市電』の著者で、以前「阪神甲子園パーク」の保存車に関する情報(アーカイブ「消えた"阪神甲子園パーク"の保存車」参照)もお寄せいただいた宮武浩二さんから、この2輌の近況をお送りいただきました。
▲こちらは蓬川公園に保存されている74号。かろうじて正面が見られる。'10.6.4 P:宮武浩二
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▲蓬川公園の74号のサイドビュー。幕板部まで高さのある特徴ある側窓がよくわかる。'10.6.4 P:宮武浩二
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去る6月6日に所用で出かけたついでに、阪神国道線の"金魚鉢"の保存車2輌を見てまいりました。阪神電車尼崎センタープール前駅のすぐ北側にある水明公園に71号が、そこから北西に2キロほどの場所にある蓬川公園に74号が保存されています。いずれも台車付きで、ビューゲルを除いてほぼ原型で保存されています。外観は、ヘッドライト、テールライトの他にアメリカ製のトロリーキャッチャーも健在で、大きな窓から車内をうかがうと、集会施設として整備されており、手入れも行き届いています。屋根上も特徴のあるベンチレーターなども見ることができます。2輌とも車体広告枠に阪神国道線の歴史を知ることができるよう説明版が取り付けられており、単に廃車電車の活用というだけではなく、阪神間の交通史を知ることの出来る貴重な遺産として保存されています。
▲74号の前照灯部にはポール引き紐用の滑車が残る(左)。右は正面腰板部に取り付けられたレトリーバー。ポールが架線から外れた際の跳ね上がりを抑えるための装置。'10.6.4 P:宮武浩二
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▲ドアの開閉と連動する折り畳み式のステップ(左)と、車体裾部に残る阪神の社紋(右)。'10.6.4 P:宮武浩二
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▲トムリンソン式密着連結器を装備していたというが、残念ながらその痕跡は見られない。'10.6.4 P:宮武浩二
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74号の説明看板によると...
この阪神電車は、昭和2年7月西野田~東神戸間が開通して以来、昭和50年5月までの48年間、私達の足として長年親しまれてきたことを記念し、郷土の歴史の一環として保存、展示するものです。この電車は昭和12年2月汽車会社で生まれました。その後廃止までの38年間働いていました。その走った距離は地球を44回りした1744231㎞になります。
・体重(自重) 20.6トン
・身長(長さ) 13.90m
・高さ 3.885m
・幅 2.345m
▲再び74号の逆側正面。屋根はついているものの、塗装はかなりくたびれてしまっている。'10.6.4 P:宮武浩二
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なお、阪国線の保存車は、ほかに大庄公園に1輌、永楽運輸という会社に2輌払い下げられたようですが、確認できませんでした。また伊丹市池尻に保存されていた79号(個人所有)は所有者の逝去で、滋賀県の方が引き取ったようですが、その後の消息はわかりません。いずれにせよ、ここにご紹介する2輌は今となっては貴重な"金魚鉢"でもあり、優雅な姿は昭和初期の良き時代をほうふつさせてくれます。
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