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2008年04月30日
ブロニカS2の“引き蓋”。

新橋駅前にある創業60年という老舗中古カメラ店「大庭商会」がこの4月30日をもって営業を終えると知ったのは、うかつにも先週末になってからのことでした。二階のあのケースにあった○○は、そういえば××もあったはずなどと押っ取り刀で駆けつけてみたものの、案の定、時遅かりし、すでにどのショーケースも“蚕食”され尽くしたあとでした。
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▲ゼンザブロニカS2は6×6判クイックリターン式マニュアル一眼レフの最終完成型として1965(昭和40)年に誕生した。時あたかも“SLブーム”前夜。まさにブームを駆け抜けた機種のひとつであった。右は引き蓋を半分引いた状態。
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そんななか、せめて記念の品に何かと物色している際に目に止まったのが、階段横のショーケースに束になって置かれていたゼンザブロニカS2の“引き蓋”です。リビルト品らしく鋼線のハンドルのないただのステンレス板といったところですが、実はかねてよりいつかは調達せねばと気になっていたもので、さっそく一枚買って帰ることにしました。
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▲軽量強靭な一体鋳造のスウェーデン鋼が美点のハッセルブラッドに比べると、残念ながらブロニカS2は1.3倍ほど重い。左は引き蓋を半分引いた状態。本来は弓型を描く鋼線製のハンドルが付く。右は巻き上げクランク側。
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というのも、私のブロニカS2はいつの頃からか“引き蓋”が行方不明になってしまっており、フィルムマガジンが外れないばかりか、空シャッターも切れない状態だったのです。お使いになったことのある方ならご存知と思いますが、このフィルムマガジンの引き蓋は、マガジン取り外しの際のロックになっているとともに、基本的にマガジンを外した状態でないとシャッターコッキングができないのです。
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ある日、しばらく使っていないのでせめて空シャッターだけでもと我がS2を引っ張り出してみたものの、あれっ、引き蓋が付いていないではないですか。どこかに無意識にしまったのでしょうが、これがいくら探しても見つかりません。結局その日以降、一度も空シャッターを切ることもなく、我がブロニカS2は20年近くも惰眠を貪ることとなります。
▲引き蓋を強く奥まで押し込むとフィルムマガジンが外れる(左)。フィルムの交換はマガジンを外さずとも可能で、フィルムさえ装填すれば引き蓋がなくてもシャッター・チャージが出来る。
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後日、この手のカメラの“裏技”にめっぽう詳しい方に伺ったところでは、引き蓋を入れず、マガジンも外さずに空シャッターを切る裏技、いや荒技もあるそうです。フィルムマガジンの220フィルム切り替えノブがスプールの回転軸も兼ねており、巻き上げクランクの回転に合わせて空転しますが、このノブを空転しないように強引に押さえ込んで巻き上げるとセルフコッキングが効くというものです。試してみましたが、かなりの力が必要なのと、なにか取り返しのつかない壊れ方をしそうで、決してお勧めはできません。
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▲我がS2が最後に稼動した頃の一枚。倶知安で通票を受ける函館発旭川行き下り121レ。牽引機は小樽築港区のDD51 716で、区名札差に入れられた伝統の「築」と重連総括を示す「重」の文字が懐かしい。拡大するとわかるが、このコマはきちんとフィルムの平面性が出ているようで、平面性とブレさえ押さえ込めば、ニッコール75㎜の解像力はすこぶる良い。'85.1.1 倶知安
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いずれにせよ、大庭商会さんの最後の放出品で、我がブロニカS2には再びあの盛大なシャッター音が甦りました。“ブレニカ”と揶揄された後退式クイックリターンミラーのショック、シャッターコッキング時のガキッという決して気持ちの良くはない音、そして常に悩まされたフィルムの平面性と、多難な印象ばかりが甦ってきますが、それでも私にとって“ハッセル前夜”の日々を共に歩いた大切な一台ではあります。期せずして引き蓋も手に入ったことですし、今度の休みは久しぶりにフィルムを詰めてみることにしましょうか…。
投稿者 名取紀之 : 09:37
2008年04月29日
写真展「中国の炭鉱軌道」開催中。

▲写真展「中国の炭鉱軌道」から。急速に近代化が進んでいるとはいえ、まだまだ中国全土に小規模な炭礦が無数にあり、そこには必ずと言ってよいほど軌道が敷設されている。P:寺本孝広
東京都心のギャラリー「アートスペース・モーター」で寺本孝広さんの写真展「中国の炭鉱軌道」が開催されています。そのタイトルのとおり、中国各地に存在する炭礦軌道をテーマとした写真展ですが、C2形蒸気機関車の活躍で人気を博している芭石鉄道(四川省)などのいわば“メジャー”筋ではなく、ひたすら中国各地の小規模炭礦に息づく名も知れぬ軌道ばかりを追っているのが異色です。
エネルギー資源に恵まれた中国では、各地に大規模な炭田があり、近年の目覚しい経済発展とともにその需要は拡大の一途を辿っています。しかし、撫順炭礦(アーカイブ「3連接の凸電」、「ジテとの邂逅」参照)のように“超”の付くほど大規模な炭礦がある反面、わずかな鉱区の採掘権だけを頼りに出炭を続ける小規模炭礦も星の数ほどあり、そこには必ずと言ってよいほど運搬用のナローゲージ軌道が敷設されています。
▲会場のアートスペース・モーターは3年ほど前に斉木 実さんと米屋浩二さんが写真展「鉄道遺産を旅する」を開催したギャラリー。新富町駅と八丁堀駅のちょうど中間に位置する。'08.4.26
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寺本さんが情熱を傾けて撮り続けてきたのは、こういった小規模炭礦の軌道で、そこに活躍するのはまるで時代から取り残されたようなプリミティブな車輌たちです。集電装置さえ失われた鉱山用電気機関車は運転士が片手に持つ竿を架線に接触させることによって通電し、“狸堀”のような零細坑では真っ黒になった坑夫が炭車を押す…それはわが国では遥か昔に消え去った光景であるとともに、近代化めまぐるしい中国にあっても、遠からず過去のものとなってゆく姿にちがいありません。

▲コラージュを別にして展示作品は40点ほど。それぞれの作品には解説とともに所在地をプロットした中国地図が添えられている。'08.4.26
それにしてもよくぞこれだけの撮影が可能になったものだと改めて感心しますが、実はその裏には寺本さんの涙ぐましい努力の積み重ねがあります。地図で“あたり”をつけ、単身、乗合バスで現地に入ったあとは、ひたすら撮影許可の交渉…丸一日歩き回ってすべて断られることさえあるそうですから、その情熱というか根気強さには脱帽です。
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▲各地の炭礦で捉えた寸景がコラージュとして最奥の壁面を埋め尽くしている。軌道のみならず、そこにある人々の営みが生き生きと写し出されている。'08.4.26
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その寺本さん、かつて武蔵工業大学在学中はその名も『立入禁止』という伝説の機関誌を編集しておられました。日本国内の工場専用線や製鉄所、鉱山など、市販誌には馴染まない、文字通り立入禁止区域にある鉄道・軌道を実に丹念に調べ上げられており、天草地方の陶石軌道レポートなど本邦初となる発表も少なくありませんでした。また、圧縮空気機関車の研究でも日本油空圧学会の学会誌に成果を発表されるなどしています。


この一風変わった(失礼…)写真展、今週土曜日5月3日まで開催されております。最終日以外は夜20時までと会社帰りにも立ち寄りやすい設定となっておりますので、連休谷間の一日、ご覧になってみられては如何でしょうか。
投稿者 名取紀之 : 15:58
2008年04月28日
209系訓練車を公開。
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▲209系訓練車の2号車側外観。湘南新宿ライナーカラーはもとより、方向幕等がまったくない姿も特筆される。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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本日、JR東日本の「東京・大宮総合訓練センター」のプレス見学会が行なわれ、このたび導入されたばかりの209系訓練車も公開されました。
この「東京・大宮総合訓練センター」はJR東日本の東京支社および大宮支社の運転業務に従事する方を対象に、異常時対応訓練を行なう施設で、東大宮駅から徒歩15分ほどに位置します。27,000㎡近い広大な敷地には運転操縦設備、駅設備、信号設備等を擁し、平成20年度だけでも3400名(駅社員840名、車掌900名、運転士1050名、保守社員550名、指令60名)の訓練入所者を受け入れる予定だそうです。
▲長年にわたって訓練車を務めてきた前任の103系。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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▲1号車はパンタグラフを備える。ちなみにこの2輌は車輌として車籍はなく、従って形式番号の車体標記もない。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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▲営業用の209系では見られない開放タイプの運転室仕切(左)と、運転台(右)。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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▲2号車の車内見通し。基本的には大きな変更はないが、前方の運転室仕切が開放タイプとなったためにかなり印象が異なる。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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▲車端部にはATC装置のほか手旗など訓練用具が置かれている。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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そしてこの訓練センター構内の営業線を全長660mに凝縮した訓練線(3駅設備)で使用されるのが209系を2輌編成にした訓練車です。これまでは1996(平成8)年4月に導入された103系を種車にした訓練車を用いてきましたが、あいつぐ新系列車輌の投入や、新しい保安装置の導入などによって、より現状の機能に見合った訓練を行なう必要性から今回の209系訓練車の導入となったものです。
▲クモハ208-76…?…実在しないナンバーも訓練車ならでは。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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新訓練車となった209系は1号車+2号車の2連。列車情報管理システムTIMS(Train Information Management System)と同様な表示機能を搭載し、各種保安装置を両運転台に搭載しているのが大きな特徴です。訓練時に用いられる放送装置やCCDカメラ等の映像装置も追加されており、209系と言っても極めて特殊な使命を帯びたものとなっています。なお、車体塗色は湘南新宿ラインカラーとなっているのも特筆されます。
▲「長野総合車両センター平成20年改造」の銘板が車端裾部に取り付けられている。'08.4.28 総合訓練センター P:RM
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▲209系訓練車の主な訓練設備。(JR東日本東京支社提供)
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この209系訓練車は、救済運転の取り扱い、信号機故障時の取り扱い、踏切事故の取り扱い、人身事故時の取り扱い、保安装置故障時の取り扱い、TE装置の取り扱いなど、運転取り扱いの基本的知識・技術、異常時の処置能力および判断力を身につけるために大きな貢献をしてくれるはずです。なお、同訓練センターに設置されている3台のシミュレータも最新の機能に見合った内容にアップデートされています。普段は目にすることのできない施設ですが、鉄道の安全がこういった訓練センターによってしっかりと護られていることを、私たちも再認識したいと思います。
投稿者 名取紀之 : 20:48
2008年04月27日
新緑の大井川鐵道を訪ねる。(下)
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▲接阻峡温泉駅はアプト開通までは川根長島駅を名乗っていた井川線の主要中間駅。現在でも16:26着→翌10:27発の折り返し列車の設定があり、構内には駐泊設備もある。'08.4.20
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さてその井川線ですが、実は昨年7月より静岡県農林事務所の治山工事のため千頭~奥泉間が運休しバス代行となっていました。この3月29日より全線の運転を再開したばかりで、川根両国、沢間、土本、川根小山といったアプト区間手前で列車の姿が見られるのは8ヶ月ぶりということになります。
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▲道路橋上から見た川根両国の井川線両国工場。静態保存されているDD107の姿も見える(左)。右は千頭駅構内の井川線車輌たち。奥に見えるオープンデッキのスハフ1形はこの連休の5月3~5日には「かわかぜ号」としてDBに牽かれて千頭-川根両国間を走る。'08.4.20
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▲かつての千頭森林鉄道の分岐駅であった沢間駅。千頭からこの沢間までの区間が3'6"と2'6"のデュアルゲージとなっていた。画面前方が千頭方で、右の道路がかつての千頭森林鉄道軌道跡。'08.4.20
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その運休区間にある沢間駅はかつての千頭森林鉄道の分岐駅でもあります。千頭駅裏の貯木場を出た千頭森林鉄道の列車は、デュアルゲージで井川線に乗り入れ、川根両国、沢間と進み、ここ沢間駅から寸又川沿いに渓谷を分け入ってゆきました。地元観光協会が「すまた号」と命名した湯治客輸送列車も走っていたというこの千頭森林鉄道は、東京営林局管内としては最大規模の森林鉄道で、その廃止も1968(昭和43)年4月と森林鉄道としては比較的後年です。現在でも寸又峡温泉に機関車や客車が保存されているのはかつてご紹介(アーカイブ「寸又峡温泉の保存車たち」参照)したとおりです。
▲その沢間駅構内の柵には千頭森林鉄道で使われていたと思われる軽レールが…。'08.4.20
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▲満開の山桜を潜るように接阻峡温泉に到着する下り列車。井川線の下り列車はすべて制御車クハ600形が先頭となる。'08.4.20
途中交換駅の接阻峡温泉、かつての川根長島を過ぎるとさすがに並行道路も険しい山道となり、井川線はまさに深山幽谷の中へと分け入ってゆきます。ことに尾盛-閑蔵間は取り付け林道さえなく、線路は等高線をトレースするかのようにうねうねと森の中を走り続けます。

▲昔から変わらぬ井川線のハイライト関の沢橋梁をゆく。1954(昭和29)年、高さ100mのこの橋梁の完成をもって井川線が全線開通した。'08.4.20
その尾盛-閑蔵間、第2尾盛隧道と平岩隧道に挟まれた断崖絶壁に架かるのが古くから井川線のシンボルとなってきた関の沢橋梁です。長さ114mの雄大なアーチ橋は水面からの高さ実に100m。近年では通過する列車は歩くほどの速度まで減速し、乗客にその景観を披露しています。それにしても今でこそ客車も密閉タイプとなったものの、最初に訪れた頃はまだまだオープンデッキの旧型客車が全盛で、この橋を渡る時は結構な恐怖だったのを思い出します。
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▲終点・井川で発車を待つ上り千頭行き。井川駅の構内は狭隘な崖ふちにへばりつくように広がる。'08.4.20
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そして最後に訪れたのが終点の井川駅です。井川ダム堰堤に隣接するように設けられたこの駅は、今でこそ観光客で賑わっていますが、本来はダム建設の人員・資材輸送の要衝でした。もっとも実際の貨物ヤードはさらに先に伸びた貨物専用線の堂平と呼ばれる場所に設けられていました。
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▲井川駅本屋(左)と本線の終端部分(右)。ただし、線路は手前で分岐しさらに貨物駅であった堂平まで続いている。井川線本来の使命は井川ダムの建設資材をこの堂平基地まで運搬することにあった。'08.4.20
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ところでこの井川-堂平間の専用線、いったんは軌道撤去されたものの、奥地の小規模ダム建設用資材輸送のために1986(昭和61)年に復活を果たしています。ここを使って小型蒸気機関車の動態保存運転をできれば…と当時副社長だった白井 昭さんからうかがったことがありますが、もし実現していれば、アプトとともに井川線のもうひとつのアピールポイントとなったことでしょう。
投稿者 名取紀之 : 10:14
2008年04月26日
新緑の大井川鐵道を訪ねる。(中)
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▲ED90を先頭にアプト区間を下る千頭行き。背後には長島ダムの偉容が迫る。'08.4.20 長島ダム−アプトいちしろ
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大井川鐵道本線の蒸気機関車も久しぶりなら、井川線を訪ねるのもほぼ2年ぶりとなります。ただ、その間に白井 昭さんのRMライブラリー『大井川鐵道井川線』を編集していますので、感覚的にはそれほど久しぶりとは思えないのが不思議です。

▲アプト区間ひと駅間で89mの標高差を克服するだけあって、眼下を行く列車も見事に傾斜して見える。'08.4.20 長島ダム−アプトいちしろ
アプトいちしろ駅から坂を上がっていった所にあるアプト区間を一望できるポジションへ。1990(平成2)年のアプト区間開業時、いや開業前の試運転時から幾度となく訪れているお馴染みのポジションですが、ここに来るたびに思い出されるのは交通博物館副館長だった松沢正二さんのありし日のお姿です。日本鉄道保存協会の顧問で交通関係の著作が多い松沢さんですが、実は洋ランの研究家としてもたいへん高名で、植物に関しても信じられないほどの博識をお持ちでした。かつてこのポジションでご一緒した時、撮影の間合いに周辺の草木を丁寧に説明してくださいましたが、私のような者にはただの“雑草”にしか見えない足元の植物を、慈しむように熱心に語られていたのを昨日のことのように思い出します。
▲3輌のED90はそれぞれ異なった汽笛を備えており、その音色で個体識別が可能。'08.4.20 アプトいちしろ
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▲ED90のサポートでアプト区間を下り、再び自力で千頭へと向かうDD201牽引の上り列車。DD201はスイスの姉妹鉄道にちなみ“ROTHORN”とネーミングされている。'08.4.20 アプトいちしろ
早いものでアプト開通から18年、長島ダム周辺も大きく様変わりしました。かつては「閑蔵林道」だけだった沿線道路もすっかり整備され、少なくとも千頭~接阻峡温泉間は初心者ドライバーでも楽々走れる快適な道となっています。あまりの渓谷の険しさから人を阻む=接阻峡と名づけられたという秘境も着実に新しい時代を迎えているようです。
余談ながらその閑蔵林道には苦い思い出があります。四半世紀以上も前のことですが、当時はそれほど普及していなかったレンタカーを借りて井川線の撮影に向かった時のことです。例のごとく、自損であろうと必ず警察で事故証明を…と借り受け時に営業所で念を押されたのですが、こともあろうに閑蔵林道で落石にあってしまったのです。ボンネット・リッドが凹む程度の損傷で走行に支障はなかったのですが、さて、事故証明となると…。
▲2001(平成13)年製の展望客車スロフ316。井川線用車輌としては一番新しい車輌である。'08.4.20 アプトいちしろ
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長島の駐在所まで行き、迷惑顔のおまわりさんを連れて現場確認に戻ったものの、今度は肝心の“現場”がどこだったかわからなくなってしまいました。とにかくいたる所落石だらけで、今さら思えばよくぞ普通乗用車であんな林道へ分け入ったのもだと思いますが、とにかく適当(!)に現場を確認して証明書を作ってくれました。ただ、そんなこんなで半日が潰れてしまい、結局、その日の井川線の写真はほとんど残っていません。
投稿者 名取紀之 : 13:13
2008年04月25日
新緑の大井川鐵道を訪ねる。(上)
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▲横郷付近を行くC10 8牽引の臨時列車。桜も終わり、川根路はもうすっかり新緑に包まれている。ちなみに今回の一連の写真はすべてコンパクト・デジカメによる撮影。'08.4.20 塩郷−下泉
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先日、名古屋からの帰路、ひさしぶりに大井川鐵道を訪れました。前回の訪問がC11 190の炭庫換気窓を見に行った(アーカイブ「C11 190の“換気窓”」参照)一昨年のゴールデンウィークですから、またしても2年近くご無沙汰をしてしまったことになります。
午前中から20℃を超えて初夏を思わせる日差しの下、新金谷駅駅頭は時ならぬ人出でごったがえしていました。今日は「川根茶の日」のイベント開催に合わせてC10牽引の臨時列車も運転されるのだそうで、バスを連ねてやってきた団体観光客を交えてたいへんな賑わいぶりです。人ごみを掻き分けて改札口に辿りついてみれば、定期の「かわね路号」(101レ)はとっくに満席。蒸気機関車の動態保存がいろいろな面で難しい局面を迎えているなかにあって、この賑わいぶりはなによりも心強い限りです。
▲つつじに彩られた家山駅。木製のラッチがこの駅が歩んできた時の流れを想わせる。'08.4.20
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気がついてみれば、国鉄本線蒸機廃止の翌年、1976(昭和51)年に運転を開始した「かわね路号」も今年で33年目を迎えることになります。まだ山口線での動態復活など影も形もなかった時代に、パイオニアとして蒸気機関車の動態保存に取り組んだ大井川鐵道は、わが国のその後の動態復活に大きな道筋を示してくれました。残念ながら今回は出会うことができませんでしたが、最初の動態保存機となったC11 227が今もってシンボル的存在として元気に活躍してくれているのも嬉しい限りです。
▲「川根茶の日」のヘッドマークを掲出した1001レ。この日は最後部に展望車スイテ82を連結した3輌編成。'08.4.20 崎平−千頭
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▲新金谷の車輌区をちょうど見下ろす位置に新道の陸橋が出来ていた。折りしも通り過ぎてゆくのはもと近鉄16000系の下り普通列車。画面右へ伸びてゆくのは構外側線。'08.4.20 金谷−新金谷
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木造の新金谷駅をはじめ、周囲はほとんど変わることなく2年ぶりの再訪を迎えてくれましたが、少しばかり驚いたのは車輌区の上り方に立派な陸橋ができていることでした。
新金谷駅の上り方、ちょうど車輌区の東側あたりからは大井川河岸へと続く構外側線が分岐しており、以前は一帯が茫洋とした荒地でした。それが驚いたことに立派な道路が造成中で、その取付道として大井川鉄道本線を跨ぐこれまた立派な陸橋が新設されています。どうやら構外側線周辺は宅地として開発されるようで、一部はすでに区画整理まで完了しています。陸橋上から見下ろすと車輌区が手に取るように見渡せ、これまでにないアングルが実に新鮮ですが、その一方、文字通りのトワイライトゾ〜ンとなっていた構外側線は、踏切を含めてすっかり整備されてしまい、その点はちょっと拍子抜けではありました。
▲同じく陸橋上から新金谷構外側線をのぞむ。この付近は新道の建設とともに宅地開発も進んできている。'08.4.20
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▲大井川第3橋梁を行くC56 44牽引の101レ「かわね路号」。先ごろ復活なったC56も4年ぶりに汽笛を響かせている。'08.4.20
C10 8牽引の「川根茶の日」1001レに続いてやってきた定期101レ「かわね路号」はC56 44の牽引。昨年10月にタイ国鉄仕様となって4年ぶりの復活を遂げた機関車(アーカイブ「C56 44“タイ国鉄仕様”が試運転」参照)ですが、私は復活後の姿を目にするのはもちろん初めて。結構蒸し暑く感じる気温とあいまって、大井川第3橋梁を行くその姿が、かのカンチャナブリとオーバーラップして見えたのは気のせいでしょうか
▲101レの後部につくのは住友大阪セメント伊吹工場専用線からスカウトされてきたED501形「いぶき」。'08.4.20
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投稿者 名取紀之 : 12:53
2008年04月24日
489系トップナンバー健在。
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▲国鉄特急色ボンネット車の並びがまだ見られるとは…。予備編成(奥)と顔を合わせたトップナンバーH1編成。'08.4.3 金沢総合車両所 P:RM(新井 正)
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1958(昭和33)年11月、“ビジネス特急”「こだま」は、従来の国鉄車輌のイメージを根底から覆すボンネットスタイルで鮮烈なデビューを飾りました。そうです、1958年ということは今年でちょうど50年、半世紀を迎えることになるのです。


▲Tc489-1とTc489-501の車体標記。形式記号の頭につく直径40㎜の●印は今や過去のものとなった「横軽対策車」の証。'08.4.3 金沢総合車両所 P:RM(新井 正)
オリジナルのモハ20系(151系)から161系、181系、481系、485系と脈々と引き継がれてきたボンネットスタイルは、1971(昭和46)年に横軽(碓氷峠)対応の489系へと継承されます。最初に誕生したのは先頭車クハ489形をはじめ、モハ488・489形、サロ489形、サシ489形の5形式54輌。なかでもクハ489形はEF63形と連結する関係から向きが固定され、下り方が0番代、上り方が500番代と作り分けられました。
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▲唯一の定期ボンネット運用となった「能登」で活躍を続ける金沢のトップナンバー編成H1(写真はTc481-501)。1971(昭和46)年生まれの現役長老車輌である。ちなみに現在「能登」は必ず国鉄特急色のボンネット車が充当される貴重な列車である。'08.4.3 金沢総合車両所 P:RM(新井 正)
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そのクハ489形0番代、500番代のそれぞれトップナンバーが奇跡的に生き残っている、しかも“今なお現役”として生き残っていると聞き、本誌今月号では金沢総合車両所にうかがい、その姿を詳細にご紹介しております。
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▲ボンネット型特急電車のシンボルのひとつでもある運転席上のライトカバー(左)とボンネット裾部に設けられたMG冷却用の空気取り入れ口。'08.4.3 金沢総合車両所 P:RM(新井 正)
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誕生から37年の歳月が経過しているにも関わらず、同所H1編成の前後に組み込まれたトップナンバー車は、さながらいぶし銀のごとき輝きを放っています。細かい差異はあるものの、基本的はシェープとしては半世紀前から何ら変わっていないボンネットスタイルと国鉄特急色は、時空を超えて生き続けられるデザインの力を私たちに再認識させてくれるかのようです。
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▲Tc489-1の運転室。オリジナルと比べると、各種保安装置が追加されたほか、マスコンがMC53形に交換されている。'08.4.3 金沢総合車両所 P:RM(新井 正)
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現在このトップナンバーをはじめ、金沢総合車両所に配置されている489系は4編成34輌。H1〜H3の9輌編成3本が急行「能登」に運用されており、そのほかにラウンジカーの組み込まれていない7輌編成1本が予備として在籍しています。そして驚くべきことにその4編成すべての先頭車がボンネットスタイルで、しかも国鉄特急色なのですから、まさに奇跡と言っても過言ではないでしょう。なお、この金沢総合車両所のトップナンバー編成については発売中の本誌でたっぷりとご紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
投稿者 名取紀之 : 18:48
2008年04月23日
ペンタックスK20Dで大連市電を撮る。
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先日の中国・遼東半島の旅にはペンタックスの最新鋭デジタル一眼「K20D」と、これまた発売になったばかりの標準ズームDA18-55㎜F3.5-5.6ALⅡを携行しました。これまでにも「*ist DL2」などペンタックスのデジタル一眼には少なからず馴染んできただけに、初めて手にする「K20D」にもとりたてて戸惑うことはなく、初日から旧知のごとく使いこなすことがでました。
▲大半の電車が折り返す華楽広場電停付近まで来ると、市街地の喧騒が嘘のように静かな街並みが続く。茫々とした夕日がわずかなハイライトとなって市電を照らす。こんなデリケートなライティングにもK20Dはしっかりと応えてくれた。'08.3.20 春海街−華楽広場(DA18-55㎜F3.5-5.6ALⅡ)
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被写体はひさしぶりに再会した大連市電。かつては戦前の日車製オリジナルのままの3000形や、“犬顔”の現地製1000形などが行き交っていた路線にも、今や連接車体のLRTが幅をきかせつつあり、すっかり様変わりしてしまっていました。大連市電に関しては近日中に改めてご紹介いたしますが、今日はこの市電散策で活躍してくれた「K20D」を詳しくご紹介いたしましょう。
ペンタックスのフラッグシップたる「K20D」の“売り”はなんと言っても有効約1,460万画素の新開発CMOSセンサーです。もちろんさらに画素数の大きなデジタル一眼レフも世の中には存在しますが、大判の誌面が売りの本誌にあっても、これほどの有効画素数があれば充分以上で、見開きにさえまったく問題なく反映できます。しかも他のいわゆるハイエンド機がそれなりに大きく重いのに対して、この「K20D」は質量715グラム(本体のみ)と非常にコンパクト。海外の旅では、数日経つうちにこのコンパクトさが何ものにも代え難いメリットとなって実感されるはずです。
▲大連の旅をともにしてくれたペンタックスK20D+DA18-55㎜F3.5-5.6ALⅡ。ちなみにこの写真の撮影もペンタックスOptio S4。'08.3.20 大連駅前
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▲民主広場(日本時代の敷島広場)電停を行く戦前の日車製3000形更新車。ペンタックスK20D+DA18-55㎜F3.5-5.6ALⅡの組み合わせは街歩き+路面電車撮影にはもってこいだ。'08.3.20
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また、明暗差の大きい鉄道撮影にはこの「K20D」が採用したダイナミックレンジの拡大が非常に奏功しており、ことに印象的な朝夕の斜光線を活かす撮影にはもってこいです。さらにボディ内蔵手ぶれ補正機構=シェイクリダクション(SR)が意外なほど心強く、標準レンズで手持ち1/4secまでは確実にブレない…などと日頃から豪語している身にとっても、ありがたい限りでした。
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▲201系統の終点・海之韻公園へと下りこんでくる3000形更新車。近年路線延長された区間で、周囲は海沿いの造成地が続く。'08.3.20(ペンタックスK20D+DA18-55㎜F3.5-5.6ALⅡ)
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▲上の写真の部分アップ。シェイクリダクション機構が効いて、露出のない厳しい条件にも関わらずブレは見事に押さえられている。'08.3.20
これらのほかにも各種カスタムイメージの設定など新機軸が盛りだくさんですが、鉄道撮影に意外と“使える”のが、高性能デジタル一眼レフにはなぜかほとんど装備されてこなかったライブビュー機能です。コンパクト・デジカメの場合はモニター優先でむしろファインダーがないがしろにされてきたきらいがありますが、逆にデジタル一眼レフの場合、モニターは撮影画像を確認するもので、ライブビュー機能は省略されてしまうのが一般的でした。それだけにこの「K20D」のライブビュー機能搭載はまさにわが意を得たりの思いです。今回もファインダーを覗くことのできない車輌の部分写真などに、さっそく活用させてもらいました。
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▲3000形コントローラーのアップ。このサイトでアップロードできる限界まで画像容量を大きくしているので、ぜひ拡大してご覧いただきたい。ウェッブでは1460万画素の実力のほんのわずかしか伝えられないが、それでもこのポテンシャル。もちろん手持ち撮影。'08.3.20(ペンタックスK20D+DA18-55㎜F3.5-5.6ALⅡ)
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最速約3コマ/秒(連続撮影コマ数最大約38コマ)もよほど特殊な状況下でもない限り充分以上で、なによりもシャッターレスポンスが非常にクイックで、その点でも鉄道撮影にはもってこいです。もちろんセールスポイントとして謳われている防塵・防滴構造も過酷なフィールド撮影が少なくない鉄道写真向けと言えましょう。
詳しくはペンタックスK20Dスペシャルサイトへ(→こちら)
投稿者 名取紀之 : 14:57
2008年04月22日
名鉄パノラマカーに乗る。
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先週末は名古屋方面に出掛け、久しぶりに名鉄7000系パノラマカーに乗る機会がありました。かつては名古屋本線に限らず、犬山線、河和線等々、移動の足としてとりたてて意識することもなく乗ってきたパノラマカーですが、引退まで一年あまりと聞くと、改めてその存在を意識せざるをえません。
▲名鉄名古屋駅に到着しようとする犬山行きパノラマカー7011F。通常運用にも関わらず、先頭展望室はまるでイベント列車のような賑わい。'08.4.19
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それにしても、噂には聞いていたものの、パノラマカーの人気ぶりには驚かされました。須ヶ口〜佐屋間の区間運用(津島・尾西線)あたりでも家族連れを含めて前面展望室は満員。折り返しの間にはその特徴あるフロントマスクをカメラ(携帯電話?)に収めようという人たちでホームは時ならぬ賑わいとなっています。
最盛期には116輌の大勢力を誇った7000系ですが、今や残されているのは6連4本、4連6本の48輌のみ。しかも土休日は6連の運用が極めて少なく、4連運用も充当される営業列車は往時とは比べものにならないほどの激減ぶりです。それでもまだ今のところは、本線は名鉄岐阜〜東岡崎間、犬山線は犬山、津島・尾西線は弥富、河和線は河和、知多新線は内海までなどの運用が組まれており(土休日は常滑方面への運用はなし)、各線でその走行シーンを目にすることができます。
▲鳴海で発車を待つ7011F。もと白帯車編成で前面方向板にその名残をとどめる。'08.4.19 鳴海
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ただ、それもあとわずか。6月以降は4連3本を除いて運用を離脱する模様で、そうなると乗るチャンスはおろか、遭遇する機会さえほとんどなくなってしまうと思われます。
名鉄パノラマカーと言えば思い出すのが、本誌41号(1987年5月号)のインタビュー「萩原政男さんのデザインと発展期の国鉄車輌」です。1956(昭和31)年から4年間にわたって国鉄諮問委員としてさまざまな提言を行ない、またインダストリアル・デザイナーとしてEH10などのデザインに足跡を残された萩原政男さんに国鉄分割民営化の機を捉えてお話をうかがおうという企画で、京王帝都電鉄参与を務められておられた合葉博治さん、デザイナーの岡田徹也さんと八王子のお宅に伺いました。
▲よく見ると先頭部ライトケース(ショックアブソーバー)上などには滑り止めが施されているのがわかる。'08.4.19 鳴海
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▲本線はおろか、津島線の区間運用が到着してもこの賑わい。今や老若男女入り乱れてパノラマカーは大人気。'08.4.19 須ヶ口
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主題は国鉄車輌だったのですが、それでもかなりの比重でお話が及んだのが、萩原さんの代表作のひとつ、ほかならぬ名鉄パノラマカーでした。イタリア国鉄のETR300形「セッテベロ」にいたく感激した萩原さんが、折りしも特急車の相談があった小田急に二階運転台のプランを提案したものの実現せず、その後、国鉄臨時車輌設計事務所の紹介で名鉄の新車デザインに関わり、結果として7000系パノラマカーが誕生してゆく経緯には、思わず身を乗り出して聞き入ってしまったのを昨日のことのように覚えています。
名鉄は当初計画していたボンネット形を覆し、萩原デザインに傾倒してゆきます。「前面ガラスを前端まで出して展望室の空間を大きくとるとともに乗客の安全に万全をつくす。前面ガラスも製作・維持効率の悪いカーブガラスをあえて使わず強度も出せる平面ガラスとし、万が一の事故に備え強力なショックアブソーバーを前面に内蔵する(中略)特にショックアブソーバーはむき出しにしますとそれだけで乗客に“危険な車輌”の印象を与えかねませんので、デザイン的に処理することが重要になってきます」(本誌41号より)と語っておられたのがとりわけ印象的でした。
▲神宮前駅の不思議な踏切。左はJR線で、名鉄線との間にわずか2mほどの“空間”がある。'08.4.19
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▲名古屋本線を快走する豊明発犬山行き1791列車のモ7012展望室。なお、列番の「17」は名古屋駅の時刻、「9」は犬山線系統を示している。'08.4.19
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今は亡き萩原さんの温厚な話しぶりを思い浮かべながら、改めて7000系パノラマカーを眺めてみると、誕生から47年、いささかも陳腐化していないデザインの美しさに気づかされます。年末に予定されている0系新幹線の運用離脱、そして来年の7000系の引退と、時代はひとつの大きな節目を迎えているようです。
投稿者 名取紀之 : 09:34
2008年04月21日
消える北海道の夜行特急。
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先週末、JR北海道から「道内夜行特急列車の運転終了について」と題されたプレスリリースが発表されました。これまで観光シーズンや年末年始の多客期に臨時列車として運転されていた「はなたび利尻」、「オホーツク81号・82号」、「まりも」の運転を終了するというもので、夜行列車王国であった北海道を知る者としてはなんとも衝撃的な発表です。
▲運転終了がアナウンスされた直後に捉えられた「まりも」。利用客の減少が続いていると伝えられる。'08.4.20 島松−恵み野 石原幸司さん撮影(「今日の一枚」から)
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プレスリリースによると、「はなたび利尻」、「オホーツク81号・82号」に関しては今後の運転を行わないということですので、前者は昨年9月30日稚内22時05分発の札幌行き「はなたび利尻」が、後者は去る3月16日網走22時20分発札幌行き「オホーツク82号」がラストランとなったことになります。いっぽう、「まりも」については“平成20年夏をもって運転を終了”とアナウンスされており、今年の夏休みに運転される列車がファイナルトレインとなるものと思われます。
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参考までにJR北海道のリリースより「利尻」、「オホーツク」、「まりも」系統の大まかな変遷をご紹介してみましょう(詳細は『列車名変遷大事典』をご覧ください)。
▲蒸機ファンにはとりわけ懐かしい「大雪」を引き継いだのが「オホーツク」。ファイナルセレモニーもなく消えていったことになる。'94.5.20 岩見沢 P:RM(高橋一嘉)
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■夜行『利尻』
昭和33年札幌〜稚内間に準急列車『利尻』として運転開始
昭和41年急行列車に変更
平成12年特急列車に変更
平成18年3月ダイヤ改正より季節列車化
平成19年9月30日、稚内22時05分発 札幌行き「はなたび利尻」で終了
■夜行『オホーツク』
昭和24年函館〜網走間に準急列車として運転開始
昭和33年愛称名が『石北』となる
昭和41年急行列車に変更
昭和43年愛称名を『大雪』に変更
平成4年特急列車に変更、愛称名を『オホーツク』に統合
平成18年3月ダイヤ改正より季節列車化
平成20年3月16日、網走22時20分発 札幌行き「オホーツク82号」で終了
■夜行『まりも』
昭和24年函館〜釧路間に準急列車として運転開始
昭和26年愛称名が『まりも』となる
昭和40年札幌〜釧路間の急行列車『まりも』として運転
昭和43年愛称名を『狩勝』に統合
昭和56年石勝線経由で札幌〜釧路間の急行列車『まりも』として運転
平成5年特急列車に変更、愛称名を『おおぞら』に統合
平成13年夜行『おおぞら』の愛称名を『まりも』に変更
平成19年10月ダイヤ改正より臨時列車化
この3系統の運転終了にともない、列車種別を問わず、道内に残る“夜行列車”は青森〜札幌間を結ぶ急行「はまなす」のみ(東京・大阪方面からの夜行特急を除く)となり、始発・終着ともに道内で完結する夜行は皆無となってしまいます。夜の函館駅や札幌駅ホームを陸続と発車してゆく夜行列車群を実体験している世代としては、なんとも感慨深いものがあります。
投稿者 名取紀之 : 19:06
2008年04月20日
RMライブラリー今月の新刊は『能勢電むかしばなし』。
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▲終着駅妙見(現・妙見口)に到着する52号。現在では車輌もホームもすっかり近代化したが、この付近は今なお緑多く当時の面影を残している。 '58.6.2 P:高橋 弘(RMライブラリー『能勢電むかしばなし』より)
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毎月ご好評をいただいているRMライブラリー、まもなく発売の第105巻は『能勢電むかしばなし』をお送りします。
現在では沿線開発が進み、大阪・梅田への直通特急も走る通勤路線となった能勢電鉄ですが、その終着駅が妙見口であることからもわかるように、もともとは能勢妙見山への参拝客輸送を目的に開業した“軌道線”でした。線路の付け替えや車輌の大型化などにより現在のような姿になったのは、沿線の宅地化が急速に進んだ昭和40年代以降のことで、それまではトロリーポール集電の小型電車が未舗装の併用軌道を走る、実にのんびりした情景が展開されていました。
現在、30代以上の私鉄電車ファンの方なら、1981(昭和56)年まで川西能勢口~川西国鉄前間だけ紺色とクリーム色に塗り分けられた小型電車が運転されていたのをご記憶かと思いますが、これは軌道時代の名残りとも言える存在でした。また、開業当初は沿線に三ツ矢サイダーの工場があり、電動貨車がその輸送の任を担っていたのも特徴のひとつでした。ちなみに軌道から地方鉄道への変更は1977(昭和52)年、社名が「能勢電気軌道」から現在の能勢電鉄に変更されたのは翌78年のことです。
▲多くの電動貨車が在籍したのも能勢電の特徴のひとつ。この105号は伊予鉄から譲り受けたもので、かつて大阪市電の2階電車が履いていたものとされるドイツ・ヘルブランド製台車を履いていた。'57.6.3 絹延破橋車庫 P:久保田正一(RMライブラリー『能勢電むかしばなし』より)
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▲31形車内。大きな直接制御の制御器、鞄を下げた車掌の姿も今では懐かしい。'58.6.2 P:高橋 弘
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本書では1913(大正2)年の開業時に用意された4輪単車から、昭和40年代初頭にパンタグラフ化される頃までの車輌のあゆみを中心にご紹介しております。執筆は能勢電鉄車両課OBの岡本 弥さん、そして本誌の協力編集者であり沿線住民でもあるレイルロードの髙間恒雄さんで、当事者でなければ知りえなかった裏話も数多く盛り込んだ、たいへん読み応えのあるものとなりました。
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▲鼓滝駅に停車中の能勢口行き50号。現在はこの東側をトンネルで通過するようになり、駅も移動している。 '58.11.2 P:高橋正雄
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なお、能勢電気軌道の会社としての創業は1908(明治41)年5月23日で、まもなく創業100周年を迎えます。この機会に、能勢電100年の歴史を振り返る本書をぜひお手元にお揃えください。
投稿者 名取紀之 : 17:28
2008年04月19日
塩田のナロー続報。 動画付

7回にわたってお送りした「遼東半島に未知の大ナローゲージ網を探る」には、多くの方(もちろんナローファンの方…)から数多くの熱いメッセージを頂戴いたしましたが、今日はそのなかから、寺田牧夫さんからお送りいただいたたいへん興味深いお便りを紹介してみたいと思います。まずはそのメールをご覧ください。
▲車窓から捉えた謎のナロー。遥か彼方にブルーの小さな機関車に牽かれた列車の姿が…。この写真は300mmレンズでほぼノーカット。'84.10 P:寺田牧夫
昨日の普蘭店のナローについてのブログ、興味深く拝見させて頂きました。実は20数年前、1984年10月に朗郷森林鉄道の帰路に、大瀋線列車の窓から遠方をトコトコ走る、貼付のようなトロッコを見つけてあわててカメラを向けました。当時のメモに普蘭店駅到着前と書いてありましたので、北方5〜10kmくらいの地点右(西)側だと思います。当時は何も情報も無く、HP上で呼びかけてみましたが、現在に至るまで全く手がかりがありませんでしたが、ブログを拝見して何か関係があるかと思いメールさせて頂きました。

地図を見ますと海からは少し距離があるようですが、積み荷が白っぽくて塩のようにも見えます。製塩工場へ向かう姿かもしれません。機関車は子供が絵に描いたような機関車で、現在のものとは違いますが、20数年の経年では代替わりも当然あるかと思います。
▲こちらはその後のカットを思い切りトリミングしたもので、35ミリ判カメラで1000mm相当くらいに拡大した換算となるという。L型車体を持つ機関車であることがわかる。'84.10 P:寺田牧夫
最初の写真は300mmレンズでほぼノーカット、2枚目はその後のカットを思いっきりトリミングしたもので、1000mm相当くらいになっていると思います。本線からは1km以上離れているかもしれません。あわてて撮影したためあまり良い絵ではありませんが、ご参考になれば幸いです。
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添付された写真を拝見して、おもわず「やっぱり」と膝を叩く思いでした。と申しますのも、かつて鉄道とはまったく関係ない旅行者のサイトで、普蘭店で散歩中に遭遇した小さな列車が画像付きで紹介されていたことがあり、今回の訪中でもその正体を解明したいと思ったからこその普蘭店連泊だったのです。
▲普蘭店市街に隣接して塩田の表記が見える。鉄路局沈大線が普蘭店駅に入る手前で、寺田さん撮影の塩場と思われる。名前はその名も「大塩場」と称されていた。
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結論から申しますと、またしても遅すぎました。地図でも表記されているように、沈大線普蘭店駅の西には広大な塩田が広がっている“はず”でした。実際、普蘭店駅前のバスターミナルから出るバス路線のトップ=101系統は今もって「大塩場」行きです。バスの運転手に大塩場は…と聞いてみると、「没有」つまり「ない」とのこと。念のため現地に確認に赴いてみましたが、もと塩田らしき広大な干潟は、今や工業団地とマンションの建設ラッシュでした。恐らく数年前であれば復州湾とは違ったL型機がトコトコと走り回っていたのでしょうが、もはやその影すら垣間見ることはできませんでした。

繰り返しになりますが、遼東半島にはご紹介した復州湾のほかにも数多くの大規模な塩田が存在します。この普蘭店「大塩場」もご紹介した大連復州湾塩場とは別の会社が経営していた塩田のようで、孫副長も「他所の塩場のことは知らない」とのことでした。遼東半島東岸でも数年前に塩田の軌道を目撃したという情報もあり、その実態解明はまさに始まったばかりです。このささやかなブログを端緒として続報がもたらされることを切に期待したいと思います。
上の画像をクリックすると動画(約6分)がご覧になれます。
※音声付きですので、クリックする前に周囲の環境にご配慮ください。なお、Macでは再生できない場合があります。
というわけで、貴重な情報をお寄せくださった寺田牧夫さんへのお礼も込めて、週末でもありますので、復州湾塩場の動画をたっぷりとご覧に入れたいと思います。なお、もし現地にお出でになろうとされる方がおられましたら、出荷は3〜4月と10月〜11月がピークで、ことに11月が最盛期であることを申し添えておきたいと思います。聞くところでは第8塩場線などは最盛期には一日20往復以上の運転があるそうです。もちろん、この4月も繁忙期で、いまこの記事をご覧になっているその瞬間にも、各塩場からの列車が渚を走り続けているはずです。
投稿者 名取紀之 : 22:55
2008年04月18日
0系新幹線復元色車いよいよ登場。
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▲クリーム10号(アイボリーホワイト)と青20号の懐かしい塗色に復元された0系R67編成。“丸鼻”の顔にはやはりこのカラーリングが良く似合う。'08.4.17 博多総合車両所 P:RM(新井 正)
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3月2日付け「有終の美、青い0系復活へ」で速報したJR西日本の0系復元色編成の第一弾が完成、本日から営業運転入りしています。
現在「こだま」運用に残されている0系はJR西日本博多総合車両所所属の5本(R61、R63、R64、R67、R68/いずれも6輌編成)。このうちR63、R64編成を除く3編成が0系誕生時のクリーム10号(アイボリーホワイト)と青20号の塗り分けに戻される予定ですが、まず塗色変更が完了したのは現存唯一の先頭車化改造編成でもあるR67編成です。
▲屋根上もしっかりとオリジナルの銀色に戻された。ただし、パンタグラフカバーはそのまま残されている。'08.4.17 博多総合車両所 P:RM(新井 正)
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▲22形7951のサイドビュー。このR67編成は両先頭車ともに先頭車化改造されたレアな編成である。'08.4.17 博多総合車両所 P:RM(新井 正)
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車体塗色のみならず、屋根部外板もオリジナルの銀色に、さらに床下機器と台車も黒色にと、まさに東海道時代の懐かしい姿が再現されていますが、室内のアコモ関係は特に変更はされていません。
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▲2+2配置の客室内と運転台。今回は車内にはまったく変更されておらず、これは他編成とも同一。'08.4.17 博多総合車両所 P:RM(新井 正)
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充当された営業初列車は博多南線(博多南7:14→博多7:24)で、山陽新幹線としては博多9:19発の「こだま638号」で岡山(12:53着)へと向かっています。さっそく「今日の一枚」にもこの「こだま638号」の麗しい走行シーンのご投稿をいただいておりますが、あの青とクリームの塗り分けにななぜかホッとする思いを抱くのは決して私だけではないでしょう。
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▲N700系3000番代と顔を合わせたR68編成。6月に塗色変更予定の編成で、逆にこのダークグレーとフレッシュグリーンの現塗色は6月末をもって姿を消すこととなる。'07.6.26 博多総合車両所 P:RM(新井 正)
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今後はR61編成が5月下旬、R68編成が6月下旬に復元塗色として出場する予定ですが、一方、この6月末までにはR63編成とR64編成が廃車となり、ダークグレーとフレッシュグリーンの現塗色は消滅することとなります。既報(500系新幹線「こだま」化改造たけなわ)のとおり、現在500系の「こだま」転用改造がたけなわで、11月までに全9編成中5編成が改造され、この完成を待って“有終の美”を飾る復元色0系3編成も11月30日をもって引退(その後、臨時列車としてのさよなら運転を予定)することとなります。
投稿者 名取紀之 : 19:31
2008年04月17日
名鉄犬山モノレール 最後の春。
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▲最後の春を行く犬山モノレール。路線は道路上ではなく、最急勾配は97‰。森の中を抜ける区間もあり、なかなか変化に富んでいる。'08.4.6 犬山遊園−成田山 P:高橋一嘉
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名鉄は昨年12月17日、モンキーパークモノレール線(通称:犬山モノレール 犬山遊園〜動物園間1.2km)の2008(平成20)年12月28日付け廃止を発表しました。このモノレール線は名鉄が経営する犬山市内の遊園地「ラインパーク」(現・モンキーパーク)に動物園が開設されるのに合わせ、「ラインパークモノレール線」として1962(昭和37)年3月21日に開業したもので、跨座式モノレールとしては日本初の営業路線のものでした。今日は、先日このモノレールを訪れた高橋一嘉君の写真とレポートで、犬山モノレールを振り返ってみることにしましょう。
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▲終点動物園駅の入口(左)。駅自体は「モンキーパーク」の敷地内にあり、利用客のほとんどが直接モンキーパークへ入るためか、一般道路からの入口はかなり寂しい。右はトラバーサーが備わる動物園駅構内の検修施設。ちなみに路線上に分岐器はない。'08.4.6 P:高橋一嘉
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モノレールの起源は1821年イギリス人ヘンリー・パルマにより発明されたものとされていますが、都市交通として旅客用のものが実用化されたのは1901年、ドイツ・ヴッパータールでのことです。RMライブラリー94『江ノ電旧型連接車物語』で触れられているように、日本でも昭和のはじめ頃からいくつかのモノレール路線が計画されていましたが、いずれも実現することはありませんでした。戦後、1950年代になるとまず遊園地「豊島園」に懸垂式モノレールの遊戯物が登場、その後、路面電車に代わる新たな都市交通の手段として積極的に研究開発が進められるようになり、1957(昭和32)年に日車製懸垂式を採用した営業路線第一号が東京・上野動物園内に誕生したのはご存知の通りです。
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▲犬山遊園駅を出発する。手前の線路は名鉄犬山線。'08.4.6 P:高橋一嘉
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犬山は営業路線としては上野に次ぐ第2号となりましたが、上野が園内に限られた交通手段であることを考えれば、短い距離とはいえ本格的な営業路線としては犬山がパイオニアということができましょう。この犬山の跨座式は日立製作所が西独ALWEG社と技術提携して開発した「日立アルウェーグ式」と称するもので、この方式は犬山での実績をもとに名鉄も運営に参画した東京モノレールで花開くことになり、やがてこの規格をもとに日本の跨座式モノレールの標準規格がまとめられていくことになります。ちなみに名鉄自身も岐阜〜養老間など40kmあまりの跨座式モノレール路線の免許申請をしましたが、結局これが実現することはありませんでした。
▲車内に誇らしげに掲げられた「HITACHI ALWEG」のプレート。'08.4.6 P:高橋一嘉
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▲車内は車体全周が貫通しているためもあって広々と感じる。アルウェーグ式の特徴である台車部分の車内へのでっぱりがあるのは東京モノレールと同様。天井にはファンデリアが並ぶ。'08.4.6 P:高橋一嘉
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▲名鉄電車の御札でお馴染みの犬山成田山の境内を行く。唯一の途中駅である成田山駅も有人駅である。'08.4.6 犬山遊園−成田山 P:高橋一嘉
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現在の犬山モノレールは、開業時に比べ正式路線名こそ変わったものの、1.2kmの路線は開業時と同じ。車輌も塗色は異なりますが、開業時に用意された2編成6輌がそのまま使用されています。日本の跨座式モノレールのパイオニアに乗れるのもあと8ヶ月余り、人気のパノラマカー撮影に犬山方面へお出かけの際には、このモノレール線にも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
投稿者 名取紀之 : 18:04
2008年04月16日
中之島線開業で京阪が大イメージチェンジ。

▲新型車輌3000系(右)と新しいカラーデザインの在来車輌。(京阪電気鉄道提供)
京阪電気鉄道は、中之島線の開業に合わせて京阪線(京阪本線・中之島線・鴨東線・交野線・宇治線)のダイヤの全面改定を行い、「中之島」駅から「出町柳」駅までを直通運転で結ぶ新種別「快速急行」を設定すると発表しました。また、このダイヤ改定にともない、新型車輌「3000系」6編成を新造し、中之島線開業と同時に営業運転を開始します。そしてさらに驚きなのは、これを機に京阪線の全車輌のカラーリングを変更することも発表されました。

▲新型車輌3000系完成予想図。(京阪電気鉄道提供)
ダイヤ改定は本年10月19日(日)が予定されており、中之島と天満橋を結ぶ中之島線は京阪本線と直通運転を行い、中之島線内は全列車が各駅に停車します。また、中之島からは1時間に8本の列車が運転(うち2本が出町柳駅行き快速急行)、淀屋橋駅からは1時間に16本の列車が運転(うち4本が出町柳駅行き特急)される予定となっています(いずれも平日昼間時)。
1.中之島線ダイヤ
①実施日(予定) 平成20年10月19日(日)から
②運転区間 中之島駅-天満橋駅 3.0km(営業キロ)
③運転ダイヤ(平日昼間時)
・中之島線と京阪本線を直通運転
・中之島駅からは1時間に8本の列車を運転(うち2本が出町柳駅行き快速急行)
※淀屋橋駅からは1時間に16本の列車を運転(うち4本が出町柳駅行き特急)
・中之島線内は全ての列車が各駅に停車

▲2+1列シートとなる新3000系車内。(京阪電気鉄道提供)
また、新たに設けられた「快速急行」は特急に準じる優等列車で、特急停車駅に加えて守口市、寝屋川市、香里園の各駅にも停車します。所要時間は、中之島から祇園四条までを約60分で結ぶ予定だそうです。
●快速急行停車駅中之島、渡辺橋、大江橋、なにわ橋、天満橋、京橋、守口市、寝屋川市、香里園、枚方市、樟葉、中書島、丹波橋、七条、祇園四条(現・四条)、三条、出町柳
※中之島線開業と同時に現・四条駅は祇園四条駅に改称
●快速急行所要時間中之島駅-天満橋駅間 約 7分
中之島駅-祇園四条駅間 約60分
中之島駅-出町柳駅間 約65分
▲新3000系の扉上に設置されるLCD表示器。(京阪電気鉄道提供)
そして、快速急行の種別追加にともない、1列+2列配置の転換クロスシートを採用した新型車輌「3000系」8輌編成が6編成新造され、中之島線開業と同時に営業運転を開始します。水都大阪を意識した紺色をメーンカラーに採用し、京阪初となるLCD(液晶ディスプレイ:Liquid Crystal Display)表示器を扉上に設置し、停車駅などの旅客案内情報や天気予報、ニュースを表示するほか、全車輌にパネルヒータ付きの車いすスペースが設置されます。なお、従来の3000系(1編成)は8000系に編入されるのも興味深いところでしょう。

▲LCD表示器の表示例。(京阪電気鉄道提供)
①車系3000系 ※従来の3000系(1編成)は8000系に編入
②編成 8輌編成(Mc―T―T―T―M―T―T―Mc)
③最大寸法 先頭車:18,900mm(長さ)×2,782mm(幅)×4,138mm(高さ)/中間車:18,700mm(長さ)×2,782mm(幅)×4,138mm(高さ)
④定員 先頭車:113人(うち座席 37人~38人)/中間車:126人(うち座席45人)
⑤座席 扉間:1列+2列の転換クロスシート/車端部:ロングシート。ただし、運転台後部は2列+2列の転換クロスシート
⑥自重 Mc(制御電動車) 36.5t/M(電動車)36.0t/T(付随車)27.0t~29.5t
⑦構体 アルミ合金
⑧制御装置 VVVFインバータ方式
⑨輌数 48輌(8輌編成×6本)
⑩車体製造所 川崎重工業株式会社
そしてこの3000系の登場に合わせて、既存車輌のカラーリングやロゴも一新されます。特急用車輌は1951(昭和26)年以来上半分が黄色(マンダリン・オレンジ)で下半分が赤色(カーマイン・レッド)、一般車輌は1957(昭和32)年以来上半分が若草色(ライト・グリーン)で下半分が青緑色(ダーク・グリーン)という塗色が約半世紀にわたって親しまれてきましたが、今回①2ドア・クロスシートの特急用車輌、②3ドア・セミクロスシートの中之島直通優等車輌、③3ドア・ロングシートの一般車輌に車輌を区分して塗色を分離し、4月より順次塗装工事を行い、5月より営業運転を開始する予定です。なお、変更後の塗装は以下のとおりとなります。

1. 2ドア・クロスシートの特急用車輌(8000系・現3000系/88輌)
・上部:赤色(エレガント・レッド)
・帯線:金色(エレガント・ゴールド)
・下部:黄色(エレガント・イエロー)

2. 3ドア・セミクロスシートの中之島直通優等車輌(新3000系/48輌)
・上部:紺色(エレガント・ブルー)
・帯線:銀色(スマート・シルバー)
・下部:白色(アーバン・ホワイト)

3. 3ドア・ロングシートの一般車輌(9000系を含む上記以外/574輌)
・上部:濃緑色(レスト・グリーン)
・帯線:黄緑色(フレッシュ・グリーン)
・下部:白色(アーバン・ホワイト)
なお、全車輌の塗り替え完了は2012(平成24)年となる予定だそうです。

▲半世紀にわたって親しまれてきた京阪カラーも今後次第に消えてゆくこととなる。写真は8000系に編入される予定の現3000系。'08.4.8 淀-中書島 P:髙間恒雄
投稿者 名取紀之 : 20:32
2008年04月15日
遼東半島に未知の大ナローゲージ網を探る。(7) 最終回
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▲第8塩場から戻ってくる盈車列車。五島運輸站手前の踏切付近で、このあたりまで帰ってくると海が近いとはまったく思えない風景が展開している。なお、この角度ではわからないが、画面左に道路が並行している。'08.3.21
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並行道路のある第8塩場への本線とは対照的に、第5〜7塩場方面への本線は五島運輸站を出たその時からまったく道路のない畑地の中を進みます。しかも1キロほどでその畑地さえも途絶え、線路は荒野と呼ぶに相応しい荒涼とした風景の中を一直線に伸びています。
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▲五島運輸站周辺には広範囲に畑地が広がっており、農業用水路を渡る小さな橋梁がそこここに見られる。写真は第8塩場行きで、橋梁の向こう側の築堤が第5〜7塩場への本線。'08.3.22
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ディフェンス・マップで見ると、線路は数キロ先で海を渡って対岸の交流島へ、そしてさらにその先の西中島へと続いているはずですが、望遠レンズで遠望しても、ただひたすら地平線とも水平線ともつかない直線がファインダーを二分しているのみです。
第8塩場では気の遠くなるような“海の中道”を歩き通したものの、さすがにこの第5〜7塩場本線を歩く気にはなりません。だいいち日はすでに西に傾きはじめており、深追いは禁物です。やむなく五島運輸站ジャンクションから2キロほど歩いた丘の上で、来るかどうかもわからない件のミキストを待つことにしました。その間にも、第8塩場方面への列車が遥か彼方を去ってゆくのが見えます。第8塩場本線の方が列車密度が高いようで、こちらの第5〜7塩場本線は軌道の整備状態も少々劣るようではあります。それを裏付けるかのように、線路脇に塩の山。どうやら本線列車が脱線転覆して積荷の塩が散乱したようです。
▲いったいどれだけの輌数が在籍しているのだろうか。主力のトロはおびただしい数があるが、ことごとく規格品の同形車。実測による主要寸法は端梁間全長2,200㎜×全幅1,600㎜×全高1,800㎜/WB800㎜/車輪径φ457㎜。'08.3.22
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▲第5〜7塩場への本線はかなり軌道状態が悪い。ご覧のような遊間のジョイントもそこここに…。'08.3.22 右は第1〜4塩場で見かけた石材製の枕木(?)。これなら朽ちようもない.'08.3.21
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小一時間も待ったでしょうか。遥か彼方に何やら芥子粒のように蠢くものが…。望遠レンズで確認すると列車に違いありません。ついに待ちに待ったミキストかと思いきや、10分近く掛かって姿を現したのは残念ながらレギュラー・トレインでした。
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▲軌道両側に塩の山。どうやらこの地点で派手な脱線転覆をやらかしたらしい。遙か彼方に第5〜7塩場のある交流島があるはずだが、とても歩く気にはなれない。'08.3.22
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時計の針はすでに17時近く。五島運輸站へと去ってゆく盈車列車を見送りながら、これでタイムアウト、いよいよ波乱万丈だったこのナローを離れる時がやってきたと感慨に浸りながら振り返ると、地平線の彼方からもう1列車がヨロヨロと続行してくるではないですか!
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▲やっぱり“ミキスト”はやってきた! 他機より少々小ぶりで、なおかつツートンカラーの機関車に牽かれてガラガラと引きずられるように走る客車(人車)の中からは、撮影しているこちらに好奇の目が…。'08.3.22
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▲突き刺したような煙突がチャームポイントの人車と有蓋車。遥か彼方の塩場で一日の仕事を終えた人々を乗せた帰りの列車なのだろう。沈みそうで沈まない大陸特有の夕日を全身に浴びて帰路を急ぐ。五島運輸站はもうすぐだ。'08.3.22
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大陸の夕日を全身に浴びて目の前を通過してゆく待望のミキストを見送りながら、このまったく知られていないナローゲージ網の奥深さを改めて痛感していました。遼東半島の塩田はここ復州湾だけではありません。成田からわずか2時間半、遼東半島の未知の大ナローゲージ網の探訪は、いま始まったばかりです。 (完)
投稿者 名取紀之 : 19:17
2008年04月14日
映画「鉄道王国北海道」が完成。

▲会場となった芝浦港南区民センター。立派なホールを備える公共施設で、公募でお出でになったファンの姿も少なくなかった。'08.4.13
東海道新幹線開業初列車の運転士を務め、なおかつ古くから熱心な蒸気機関車ファンとして主にムービーを撮影してこられた大石和太郎さんと、わが国のライブスチームの普及に尽力されてきた㈳日本ミニクラブ会長の栗山 弘さんが数年前から制作に取り組んでこられた16㎜映画「鉄道王国 北海道 —その隆盛と衰頽—」が完成、昨日、東京・港区の芝浦港南区民センターで完成記念上映会が行なわれました。本誌先月号インフォメーションでご案内したこともあってか、会場には公募参加の方もたくさんお出でになっておられました。

お二人の鉄道映画共同制作は今から36年前の1972(昭和47)年に遡ります。無煙化までの二俣線を追った「機関車と共に」(1973年)や、三菱美唄鉄道の4110最後の活躍を記録した「美唄の汽車」(1974年)などを皮切りに、近年では「碓氷峠」(2000年)、「津軽の鉄道」(2004年)などをまとめられ、㈳日本ミニクラブフィルム・ライブラリーとして管理されておられます。
▲エントランスに設けられた受付では無料頒布される立派なパンフレットに驚きの声が上がっていた(左)。右は上映を待つ参加者。'08.4.13
今回完成した「鉄道王国 北海道 —その隆盛と衰頽—」(トーキー/光学、60分)は、お二人の共同作品としては16作品目。
まず新橋〜横浜間の官設鉄道開業より3年早い1869(明治2)年に敷設された茅沼炭礦の軌道を端緒に北海道の鉄道の歴史を振り返り、次に国鉄隆盛期の象徴として蒸気機関車全盛期の石北本線、石炭産業の衰退による私鉄廃止の象徴として末期の美唄鉄道、そして道内の鉄道を取り巻く昨今の厳しい状況として北海道ちほく高原鉄道の廃止までを追ったドキュメンタリーの3つのストーリーで構成されています。
▲ともにこの映画を完成された栗山 弘さん(左)と大石和太郎さん(右)。(「鉄道王国北海道」パンフレットより)
なかでも圧巻は1971(昭和46)年に遠軽機関区の乗務員に密着した映像で、官舎から弁当を携えて出勤してゆく様子から点呼、乗務までを素晴らしいカメラアングルで追っています。大石さんのお話では、当時の鉄道管理局のみならず組合の協力もあって実現したものだそうで、添乗によるキャブ内の様子はもとよりのこと、フロントデッキから捉えた力行シーンなど、驚きの映像も見られます。
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▲「鉄道王国北海道」のストーリーボード(部分)。常紋信号場の解説ではイラストを使った分かりやすい解説も織り込まれている。(「鉄道王国北海道」パンフレットより)
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美唄鉄道の廃止を追った作品では、廃止後、まだ現役で蒸気機関車が活躍していた大夕張鉄道を訪れた星 修美唄鉄道機関区長が、去ってゆく9600を見送りながら「機関車はやはり動いていなければ…」と寂しそうに呟くシーンが胸を打ちます。
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▲頒布されたパンフレットでは道内の地方鉄道・軌道の消長を路線図を含めて解説されている。もちろん国鉄線の推移も詳述されており、映画のパンフレットとは思えない力作。(「鉄道王国北海道」パンフレットより)
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2部に分かれて好評裏に終了した上映会ののち、場所を自由が丘に移して懇親会が開催されました。映画に出演されていた星もと美唄鉄道機関区長や、前作の舞台となった津軽鉄道の澤田長二郎社長も駆けつけ、賑やかに完成を祝しましたが、残念ながら現時点では今後の公開予定は未定とのこと。60ページにもなる北海道の鉄道の歴史をまとめたパンフレットも自主制作されただけに、ぜひ遠くない機会に多くの皆さんにご覧いただける機会が再び訪れることを願いたいと思います。
投稿者 名取紀之 : 13:02
2008年04月13日
キヤ97いよいよ始動。
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▲運用が開始されるキヤ97形。これまでの機関車+チキに代わってレール運搬の工臨に使用されることになる。 '08.4.7 名古屋車両区 P:RM(高橋一嘉)
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お楽しみいただいている復州湾塩場探訪記は間もなく最終回ですが、その前にちょっとお休みして、今日・明日は最新のニュースをお届けしましょう。まずは、2月1日付けの本ブログで簡単にご紹介し、本誌でも速報としてその姿をお伝えしたJR東海のレール運搬用気動車キヤ97形の試運転が完了し、配置先の名古屋車両区で報道公開されましたので、その様子をお伝えいたします。
JR東海では年間に延べ190kmのレール交換をしており、これまでレール運搬には機関車+チキが使用されてきました。これに代わるものとして開発されたのが、このレール運搬用気動車です。機関車牽引に比べ機回しをする必要がなくなり、最高速度も従来75km/hであったものが空車時:110km/h、レール運搬時:95kmまで向上されるほか、気動車化により保守や検査も効率化され、車輌保守費用も年間で3000万円軽減されるとのことです。
▲運転台部分を見下ろしてみる。キヤ95形同様のデザインながら作業用に小さなデッキが設けられている。'08.4.7 名古屋車両区 P:RM(高橋一嘉)
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▲キヤ97-101を後部から見下ろす。レール積付装置が良くわかる。'08.4.7 名古屋車両区 P:RM(高橋一嘉)
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▲デッキ部分のアップ(左)。右は後ろ姿。運転台背後には排気管が立ち上がっている。'08.4.7 名古屋車両区 P:RM(高橋一嘉)
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まず目が行くのは「ドクター東海」ことキヤ95形の運転台部分のみがフラットカーの上に載っているような不思議な外観ですが、レールの下ろし作業時に使用する定低速運転機能や、暗いところでの乗務員の乗降用に取り付けられた照明など、保守車輌ならではの装備も気になるところです。
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▲マスコンの上に見える小さなレバーはレール下ろし作業時に一定の低速で運転するためのマスコンとのこと。'08.4.7 名古屋車両区 P:RM(高橋一嘉)
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▲作業時など暗い箇所でのデッキや乗務員室乗降用のLED照明。側面にも作業用の蛍光灯が付く(左)。'08.4.7 名古屋車両区 P:RM(高橋一嘉)
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▲定尺レール用のキヤ97-0(上)とロングレール用のキヤ97-200(下)形式図。(JR東海提供)
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このレール運搬用気動車は、まず、今回公開された定尺レール(25m)運搬車(4編成8輌/1編成で25mレール最大46本を積載可能)が昨年12月に完成、すでに試運転も完了し、いよいよ4月から運用が開始されます。また、続くロングレール(200m)運搬車1編成(動力車8輌、付随車5輌、計13輌編成)も3月に完成しており、美濃太田車両区に配置され7月の運用開始を目指して現在試運転中です。なおキヤ97系については21日発売の本誌最新号で詳しくご紹介できる予定です。
投稿者 名取紀之 : 17:01
2008年04月12日
遼東半島に未知の大ナローゲージ網を探る。(6)
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▲第8塩場を出て“海の中道”をゆく五島運輸站行き盈車列車。線路は一旦画面左後方の半島(?)に入り、大きくカーブして画面右へと進む。第8塩場のローディング・ポイントは画面右遥か彼方。'08.3.22
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それにしても第8塩場はもとより、五島運輸站ヤードにしても、製品の塩は野積みの状態で、素人考えでは雨が降ったら溶け出してしまうのでは…と心配しがちです。しかし実際に山積みとなった塩を手にとってみると、私たちの馴染み深い食塩とはまったく異なり、小豆大くらいの大きな結晶、しかもかなりの硬度で、これならば多少濡れたくらいでは溶け出すこともないでしょう。
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▲横を通過してゆく同列車。見た範囲では五島運輸站〜第8塩田間に途中交換設備はないようで、全線1閉塞と思われる。'08.3.22
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ところでこの大連復州湾塩場の塩は、すべてが工業塩だそうです。用途は主に2種。ソーダ工業用と融雪剤用です。ソーダ工業というのが馴染みが薄いのですが、実は塩を原料とする基礎化学素材産業で、か性ソーダ、塩素、水素ガス等々、数多くの産業基礎素材が塩から作られているのです。
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▲広大な面積が矩形に区切られ、随所にこのような水門が設けられている(左)。ただその一区画の面積たるや恐るべき広さ(右)。'08.3.22
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現在わが国の食料塩も含めた塩の自給率は約15%。昨今問題となっている食料自給率ではありませんが、こちらも自給率は極めて低く、工業塩の大半はメキシコとオーストラリアから輸入されています。「日本ソーダ工業会」のホームページによれば、2006年度の輸入総量の実に94%がこの2国によって占められているそうです。では復州湾の塩はというと、手近な割に現在ではほとんどわが国には入ってきていないようです。その辺の背景を同HPは「かつては年間100万トン輸入されていた中国塩は、中国国内のソーダ工業の発展から、国内需要が急増し、輸出に回せる余裕がなくなり、2006年度はわずか3千トンにまで落ち込んでいます」と解説しています。
▲第8塩田入口付近から五島方面を振り返る。このカーブを曲がった列車は遥か対岸へと“海の中道”を進んでゆく。'08.3.22
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▲第8塩場担当機関車「247-1001」。正面窓は角度のついた2枚窓で、過酷な環境にも関わらずなかなかスタイリッシュ。'08.3.22
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第8塩場の山積みの塩をひとかけら舐めてみましたが、これがしょっぱいだけでなく“味がある”なかなか美味しいものでした。ご存知のように日本では流下式製塩法で作る自然塩がもてはやされており、この復州湾の塩も食料塩として脚光を浴びても良いのではと思いますが、コトはそう簡単にはいかないようです。
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▲五島運輸站を出て最初の踏切を渡る第8塩場行き空車列車。この踏切付近のレールは鉄路局払い下げ品と思しき60kg/mはあろうかという重量級。'08.3.22
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塩田を用いた天日製塩法は貯水池に海水を導いて貯え、さらにこれを何段階かの蒸発池(濃縮池)へ流し
