金華山軌道跡は今…。

先日の「北東北を巡る」はもともと女川で開催される忘年会に出席するのが発端だったのですが、最初に女川と聞いて反射的に思い浮かんだのは「金華山軌道」のことでした。金華山軌道は石巻線女川延伸以前に石巻と女川を結んでいた軌間2'6"(762㎜)の内燃軌道で、これまでにまとまった発表もなされておらず、是非一度訪ねてみたいと思っていたところでした。そんなわけで、せっかく女川の地を踏むのだからと、集まる東西のお歴々向けに簡単な資料を作って頒布することにしました。今日はその一部をご覧にいれながら、金華山軌道跡訪問の顛末をご紹介してみましょう。
▲女川駅はホーム一面の頭端式。かつては女川港への貨車の出入りで賑わったことだろうが、今はひっそりとしている。ホーム端から下がった位置にある駅本屋への階段には、かつての三陸沖地震の際に津波が押し寄せた位置がマーキングされている。'06.11.26
金華山軌道は1915(大正4)年7月に石巻と渡波間を結ぶ馬車軌道=牡鹿軌道として開業しました。のちに金華山軌道となり、1926(大正15)年7月15日付けで渡波〜女川間を延伸、全線13.9kmが完成しています。石巻では省線や宮城電気鉄道(現在の仙石線)とはまったく接続せず、北上川左岸に独自の石巻港駅を設け、ここを起点に石巻北街道を東進、万石浦北岸をトレースするように抜けて女川の鷲ノ神地区に至るというルートです。
▲女川駅駅舎。女川駅の開駅は1939(昭和14)年10月7日。金華山汽船航路の連絡駅でもある。'06.11.26
この金華山軌道が5万分の1地形図上に表記されたのは「昭和8年版」のみで、いきおいこの図幅をもとに痕跡を辿ることになります。まず現行地形図と照らし合わせてみると、下図のように、現在の石巻線渡波〜浦宿間はそっくりそのまま金華山軌道の線路敷を利用して建設され、200Rの急曲線が続いていることがわかります。それもそのはず、金華山軌道は石巻線女川延伸に伴う補償を受けて廃止(1940=昭和15年)されているのです。
▲女川港線の跡は遊歩道となっている。女川から女川港まで1.4キロを結ぶ女川港線は1958(昭和33)年に開通している。'06.11.26
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▲地形図に見る金華山軌道。石巻駅の1キロほど南東・石巻港駅を起点に石巻北街道沿いを渡波へと向かう軌道が見て取れる。万石浦北岸は現在のJR石巻線とまったく同ルートを辿り、浦宿付近から街道沿いに鷲ノ神地区へ至る。軌道は全線約1時間を要したという。大日本帝国陸地測量部1:50000地形図「石巻」(昭和11年発行)より補筆・転載。
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宿での朝食を済ませ、さっそく地形図片手に金華山軌道の女川停車場跡を探しにでかけました。ところが旧版の地形図しか手元になかったのが大きな間違いで、まったく関係ない空き地を軌道跡と思い込んでしまったのです。水産加工場らしき工場がすでに仕事をはじめていたので、のぞきこんで聞いてみましたが、作業をしているおばさんたちはどなたも30〜50代。戦前になくなった軌道のことなど当然知る由もありません。

今度は通りすがりのおじさんに聞いてみることにしましたが、「とにかくこの空き地は昔っからの旧家があったとこで、線路なんかなかったはず」とのこと。でもご親切に付近の古老のお宅を教えてくれました。同行の関田克孝さんらは、せっかくだから聞きに行ってみよう…とおっしゃられますが、なにしろまだ朝の8時。しかも日曜日とあってさすがに突然訪問は憚られ、再び地形図を広げながら付近を歩いてみることにしました。
▲ようやく同定できた金華山軌道女川停車場跡地。左の建物の位置が構内で、画面前方が石巻方。古老の証言がなければとても短時間に発見することはかなわなかった。ちなみに右に立つのは『鉄道ファン』誌の宮田編集長。'06.11.26
どうも様子が違うと困惑していると、後ろから「名取さん、名取さん!」と高井薫平さんの呼ぶ声が…。指差す方を見るとさきほどのおじさんが追っかけてくるではないですか。なんと軌道を知っている別の古老を見つけ出してわざわざ知らせてきてくれたのです。
果たして駅前の足湯につかっていた古老は齢90歳。驚いたことに金華山軌道に勤めていたことがあるというではないですか! 慌てて持っていたコッペル製機関車の組立図のコピーを見せると「そうそう、この機関車よ」と懐かしそうです。お年とは思えないほど記憶も鮮明で、軌道の駅名は立て板に水のごとく諳んじておられ、走ってきて無賃で飛び乗ってしまう人が多くて苦労したことなどを聞かせてくださいました。
▲鷲ノ神地区の住宅街にクルマさえ入れない細い道となって続く金華山軌道跡。かつてはここをコッペルの内燃機関車がトコトコと走っていたはずだ。'06.11.26
懸案の駅の跡地は…と尋ねると、「○○さんちのはす向かいで、○○さんのじいさんが駅長をやっとった」と極めて詳細な情報が得られました。なんと私たちがいままで探し歩いていた地区から小山を一山隔てた場所ではないですか。あとからわかったことですが、「女川」とひと口に言っても、現在のJR駅がある女川地区と小山を隔てた鷲ノ神地区があり、後者の方が旧市街だったのです。当然ながら金華山軌道の女川停車場は鷲ノ神地区に位置しています。おそらく国鉄線は連絡航路や貨物扱いの便、さらには狭隘な扇状地に家屋が密集した旧市街を避けて、あえて20‰+18‰の勾配で女川トンネルを穿って女川地区に駅を設けたのでしょう。結果、今では行政の中心も女川地区に移り、鷲ノ神地区は旧市街というよりも住宅街と化しています。
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▲金華山軌道機関車組立図。“オーレンシュタイン犬の糞”と揶揄されるほど大量の蒸気機関車をわが国に送り込んだオ−レンシュタイン・コッペルだが、内燃機関車の輸入は数えるほどで、営業軌道ではここ金華山と笠間稲荷、それに先日このブログでご紹介した岩井町営くらいなものである。金華山が導入したのはメーカー形式「S10」と呼ばれるもので、笠間稲荷や岩井の「S5」よりひと回り大きい。金華山軌道ではこのコッペルとプリムスあわせて4輌の内燃機関車が用いられた。(提供:臼井茂信)
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“忘年会の余興”と言ってはあまりに不謹慎ですが、短い時間ながらさまざまな出会いもあり、金華山軌道跡訪問は実に有意義でした。未発見の資料や写真もかなりありそうで、どうやら時をおかずにまた女川へと足を向けることになりそうです。


前回このブログで進捗状況をお伝えしたのが








本誌上の予告でもご承知のことと思いますが、今回の「改訂新版」最大の見所は、なんといっても3箇所に挿入された総計32ページのカラーグラフです。1960年代に支線の奥にまで足を向けられた北市正弘さんの貴重な記録を中心に、著者の西 裕之さんをして、よくぞこれほどのカラーがあったものと驚かれるほどの画像の数々です。





ご承知のようにくりはら田園鉄道は来春の廃止が決まっており、考えてみるとあと4ヶ月でその姿を見ることができなくなってしまうわけです。今回は、以前から「くりでんサポーターズクラブ」の会員でもある田尻弘行さんのコーディネートで、昼食会場に本社二階の会議室を使わせていただくなど便宜を図っていただき、短い時間ながら実に有効に“くりでん”の現状を見て回ることができました。
私にとっては前回訪問したのが昨年5月のことですから、約一年半ぶりの再訪となりますが、石越の風情も若柳の車庫もほとんど変わりなく、ある意味ちょっとホッとしました。ただ、JR仙台支社の栗原への旅を誘うポスターをはじめ、随所に「来春でなくなる」「最後の…」「さようなら」等々のキャッチコピーが入ったポスターが目立ち、来春廃止が覆りようのない事実であることを改めて実感します。「くりでんサポーターズクラブ」の優待乗車券も使用期限は来年3月31日まで。「廃止になる19年3月末でサポーターズクラブも解散することになります」との文言が添えられていました。


それにしても驚いたのはその賑わいぶりです。先日、余部橋梁で信じられない賑わいを体験してきましたが、まさかと思ったここ“くりでん”もまったく同じ状況でした。今日は日曜とあって2輌編成に増結しているにも関わらず、車内はかなりの人が座ることさえできない混雑ぶり。例によって「さようならくりはら田園鉄道と鳴子温泉の旅」といった類のバスツアーが次から次へと押し寄せて、終点の細倉マインパーク前はちょっとしたパニック状態です。余部と同様に、大型バスで細倉マインパーク前に乗りつけ、お客さんは例えば栗駒までの数駅間を列車に乗車、バスは回送で先回りして列車の到着を待つといったいわば「余部方式」がほとんど。車内はまるでテーマパークのような歓声に包まれていました。


そんななかにあって頑張っている私鉄のひとつが「とうてつ」こと十和田観光電鉄です。路線がほとんど道路と並行していて撮影ポイントが限られているせいもあってか、どうも撮影派にはいまひとつ人気の薄い路線ですが、RMライブラリーでもご紹介しているように車輌の変遷は非常に興味深いものがあり、今回のエクスカーションでも是非立ち寄ってみたい線区のひとつでした。実は十和田観光電鉄は1980年代以降足を向けたことがなく、私にとってはほとんど四半世紀ぶりの再訪となりました。それだけに“今浦島”状態で、ショックだったのは終点・十和田市駅の変貌ぶりです。巨大なショッピングセンターとバスターミナル・ビルの端っこに間借りするかのように誂えられた電車乗り場は、記憶の中にある木造建屋とはあまりに違い、まさに唖然呆然です。もっとも誌面上の写真では見知っているはずなのですが、やはり耳学問と実際に目にするのとではインパクトに雲泥の差があります。言い古されたことではありますが、やはりこの趣味にとって“現場”が一番と改めて思い知らされた次第です。







津軽中里駅はいかにも津軽らしい木造建築で、駅前には数軒の店があるだけで、あとは茫洋とした津軽平野が広がっていた印象がありますが、今は駅舎もスーパーを併設した複合施設に生まれ変わり、駅周辺も何やら建物が増えて“茫洋とした”という表現はあたらない風景となっています。ただ、かつて貨物扱いなどで賑わっていた記憶のある構内は見る影もなく寂れ、片面のみ残されたホームに「走れメロス号」がぽつんと発車を待っていました。

東京発朝一番の「はやて」で盛岡へ。レンタカーを借りて、まずは花輪線へと向かいました。昨日来、全国的に荒天が続いているようですが、なぜか盛岡地方は雲ひとつない抜けるような快晴。岩手山もこれ以上ないほどくっきりとその麗姿を見せてくれています。


もと終点の屋敷台駅構内で建材業を営んでいた東日産業跡地には客車2輌(スハフ7、オハフ9)と貨車3輌(ワフ5、ワフ7、ワ9)が放置されているとのことで足を向けてみましたが、こちらは荒れるにまかせた状態で、先行きが懸念されます。

この「別巻」では、小田急線で活躍した荷物電車(一般車の荷物電車代用=いわゆるピンチランナーを含む)、ディーゼルカー、電気機関車のほかに、「思い出のひとこま」と題して東急7000系の試験入線など貴重な画像をまとめたセンテンスを増結、さらにこれまで公刊発表された参考文献(関連記事)の索引を設けるなど、シリーズの掉尾を飾るにふさわしい内容となっています。ことに戦後最も早く創刊され、実車記事や図面の掲載も少なくなかった『鉄道模型趣味』誌に関しては、模型製作記事を含めたすべての関連記事が索引となっています。うかがえば、宮崎さん自らが全号を紐解いて関連記事を書き出したのだそうで、そのご努力には頭が下がる思いです。

この『小田急電車回顧』シリーズ、想像以上のご好評を頂戴し、第1巻はすでに当社の在庫はほとんどなくなってきております。当面は重版の予定もないやにうかがっておりますので、「別巻」お求めの際には是非ともシリーズをお揃えになることをおすすめいたします。
ご自身も運営するホームページ
三鷹駅で受付の後、上りホームの5番線へ移動すると、豊田電車区から回送されてきた編成がすでに吉祥寺方の折返し線でスタンバイしています。中央特快東京行きを退避した快速東京行きが出発するといよいよ入線です。この時が唯一走行シーンをカメラにおさめることができるとあって、高尾方のホーム先端は在京TV局、新聞社、そして鉄道誌のスタッフでごたっがえしていました。





その間に室内を見渡してみましょう。インテリアデザインは常磐線に投入されたE531系をベースに設計されています。やはり目に付くのが側扉上部に備える2画面の運行情報表示器です。右画面には路線図、左画面には広告が表示されるものですが、中央線では初物! 路線図は、誰もが興味深く見入っていました。そして半自動化された側扉の操作ボタンはフラットなものが採用され、見た目にもすっきりとなりましたが、反面、分かりづらいのではとの思いも脳裏をよぎります。よくよく見ると各ボタンの輪郭部には透明の縁があり、LEDが埋め込まれています。折り返し駅の八王子では開くはグリーン、閉まるはレッドの光がここから放たれるという心憎い配慮がなされていました。まさに取り越し苦労でした。

9233は13時42分、定刻に八王子駅の中線に到着。5分ほどすると隣の駅・豊田で抜いたE233系の下りの試運転列車が足早に抜き去って行き、ホーム上で新型車の並びが実現しています。さながらE233系化された1年半後の中央線を垣間見たようです。
臼井さんとの最初の出会いは私がまだ学生だった頃に遡ります。大学鉄研のガリ版機関誌に掲載した「土工比爾異聞」という記事に興味を持たれてお声を掛けていただいたのが最初です。この「土工比爾異聞」は、ポル・ドコービルが生み出したドコービル・システムの将来性に着目した平野富二(石川島の創始者)が、琵琶湖疎水、横浜水道、そして足尾銅山へとドコービル・システムを伝播させてゆく状況を当時の文書をひも解いて解明しようとしたもので、すでに「ドコービール小史」や「ドコービールの発見」(『鉄道ファン』No.112)を記されて、わが国のドコービル・システムに強い関心を持っておられた臼井さんのお目にとまったものです。
以後、臼井さんを慕う同好の士とともに毎月のようにお会いし、あらゆる面で薫陶を受けてきました。ご自身、長く東大の生産技術研究所にお勤めになりながらも、鉄道は“趣味”と強く割り切っておられ、終生そのスタンスを崩されませんでした。ある時、「10のうち9つが同じであるのを論証するのが“学問”なら、10のうちひとつの違いのを発見するのが“趣味”だよ」とおっしゃられたのが今でも強く印象に残っています。さらに臼井さんは写真に関する造詣も深く、形式写真のシャドウ部のディテールをいかに紙焼き上に再現するかに並々ならぬ熱意を傾けておられました。単薬を調合し、“二度焼き”と名づけられた類例のない特殊な方法でプリントされたモノクロ写真は、今もってどんなプロラボたりとて再現不可能な素晴らしものです。

英国人も趣味の悪いジョークをやるものだなと思いながらテッドの手紙を読み進むと、どうもとんだ勘違いで、このカレンダーには実は深い背景があったのです。ウェールズにある
エミリーさんの呼びかけに集まったのは、11人の女性たち。いずれもフェスティニョグ鉄道の職員やボランティアで、発起人(?)のエミリーさんも本職は本線EWS(English,Welsh and Scottish Railway)の貨物列車の運転士さんだそうです。ノース・ウェールズ・デイリー・ポスト紙によれば、2000部製作したこのカレンダーを一部7ポンドで販売し、その売上の65%をマックミラン・キャンサー・リリーフ・ファンドに寄託する計画とのこと。保存鉄道を運営するボランティアがさらにその先のボランティアに取り組んでゆく…保存鉄道大国=イギリスの底力を思い知らされる
当時、村樫さんは所属していた慶応鉄研のお仲間と一緒に安比奈を目指したのだそうで、やはりお目当てはコッペルの“E”。ただ、時すでに遅く、3輌の“E”は十年ほど前に火を落としてしまい、行き交うダンプの砂塵を浴びて路傍に放置されていました。ご他聞にもれず村樫さんも主目的が“E”だけに、安比奈線の列車そのものはほとんど記憶がないそうで、お送りいただいた写真も、いわばついで(失礼…)に撮った一枚。しかしその一枚が、長年にわたって発見されなかった貴重な記録だったのです。
このE61の牽く貨物列車の写真とともに、村樫さんは同時に写した何枚かの安比奈構内の写真を送ってくださいました。哀れな姿をさらす鉄聯の“E”の横をゆくのは加藤製とおぼしきディーゼル機関車に牽かれた600㎜軌間(鉄聯の資材を流用しているため2フィート=609㎜ではなく、メトリックの600㎜)の砂利列車の姿です。貨車ももと鉄道聯隊の軽貨車を改造したト1形やト50形です。なにゆえ安比奈にこのように旧鉄道聯隊の車輌が集結したのかはいまだに不明ですが、“E”が安比奈入りしたのが1947(昭和22)年、この頃、西武鉄道は千葉の鉄道聯隊にあった資材を大量に導入しています。余談ながら西武山口線もレール等の資材はこの際の鉄聯発生品を利用して建設されたと伝えられています。
1970年代までこの安比奈の河原で無残な姿を晒していた3輌の“E”(E16、E18、E103)は、その後西武鉄道の手によって回収され、ユネスコ村に保存展示されるなどされましたが、それ以外の安比奈に関わる車輌はことごとくスクラップされてしまい、今となっては実物を目にすることはできません。ちなみに3輌の“E”のうちE103は丸瀬布いこいの森に譲渡され、さらに近年、生まれ故郷であるドイツの保存団体に引き取られて帰国を果たしています。現在はフランクフルト近郊で

ここまで聞いて灯台下暗し…昨年の




さらに面白いのはこの“とんがり帽子”の役割です。高橋さんのお父様は古くからのファンとして高名な高橋 弘さんで、お父様に伺った話としてこんな話を披露してくれました。

この日暮里・舎人ライナーは、これまでに軌道系交通機関の空白地帯だった東京都足立区の舎人地区と、山手線などと接続する日暮里とを結ぶ路線で、見沼代親水公園〜日暮里間9.8kmを約20分で運行する予定です。先輩格の新交通システム“ゆりかもめ”などと同じ側方案内軌条方式を採用しており、東京都が軌道の支柱、桁、駅部の主要構造物を建設し、東京都地下鉄建設(株)が車輌、電気、通信などの各種設備の整備を行なう分担となっています。

今回完成した車輌は1輌長さ9mの5輌固定編成。直線的なデザインの車体はステンレス製無塗装で、自然と街の活性化をイメージした緑と桃色の帯が配されています。車内はロングシートが主体ながら、各車とも車端部にはクロスシートが配され、また編成中央の3号車の両車端には車椅子スペースが設けられています。
なお、車号は第一編成の場合は日暮里方先頭が301-1、見沼代親水公園方先頭が301-5で、ハイフン前の下二桁が編成番号、ハイフンの次が号車番号と設定されています。最終的には全12編成60輌が投入される予定とのことで、開業の暁には東京北部の交通体系は間違いなく新時代を迎えることになります。
地形図、ことに5万分の1地形図はかつては基本図だったこともあって(現在は2万5千分の1地形図が基本図)、戦前から改測(測量しなおし)、修正(現地再調査)、資料修正(現地調査を行なわず資料で修正)、応急修正(1948〜1953年にかけて米軍資料により応急的に修正)などを繰り返されており、図幅によっては明治時代から20版を超える改版を経てきているものさえあります。まさに国土を網羅した基本図で、過去帳入りした鉄軌道もほとんどがいずれかの図幅に記載されているはずです。それだけに旧版地形図の資料性は計り知れません。ところがかつては古書市や古書店で探すしか手段がなく、今風に言えば“レアもの”以外の何者でもありませんでした。その後、国土地理院の閲覧室でマイクロフィルムを閲覧してコピーを入手できるようになりましたが、これとて膨大な量のマイクロフィルムの中からお目当ての図幅を見つけ出すのはそれこそひと苦労でした。
C51 5は1920(大正9)年1月浜松工場製。18900形として新製された第一ロットにあたり、形式改定前の形式番号は18904。ながらく西日本で活躍し、1962(昭和37)年2月28日付け亀山機関区で廃車されています。
余談ですが、このC51 5で思い出すのが今から24年前、1982(昭和57)年秋に起こった転落事故です。9月12日、折からの台風12号に伴う集中豪雨で青梅鉄道公園脇の崖が崩れ、手前に展示されていたC51 5が崖下に転落してしまったのです。幸い人的被害はなかったものの、鉄道公園の展示車輌が転落するという前代未聞の事態、そしてそれがこともあろうにわずか4輌しか残されていないC51とあって、大きなショックを受けたのを覚えています。写真は転落から3ヶ月を経てビニールシートに覆われたまま復旧を待つC51 5の悲惨な姿ですが、関係者のご努力もあって翌年3月には引き上げられたうえ、現地で復旧整備されて今日に至っています。もしあの時、復旧を断念されてしまっていたら…真新しい鉄道博物館の「歴史ゾーン」で御料車の先頭に立つC51の姿を見ることはできなかったに違いありません。
私が初めてこのエキスポ・ナローゲージに参加したのは今から11年前のことです。世界3大…とは言うものの、そのあまりのローカルイベントぶりに面食らってしまった記憶があります。とにかくその会場が拍子抜けです。ロンドンのヴィクトリア駅から近郊電車で30分ほどに位置するケント州スワンレー駅が会場最寄駅ですが、まずこの駅が各停しか停まらないマイナー駅。しかも駅にはイベントを告知する案内ポスター一枚なく、尋ね歩いてたどり着いたのはどう見ても市民体育館としか見えない会場…わざわざロンドンまで来ながらこれは大失敗と落胆しつつ中に入ったのを鮮明に覚えています。ところが、会場に入ってみるとその濃密さたるや尋常ではなく、数時間後にはすっかりこのイベントに魅了されてしまったのでした。








このブログでもご紹介したように、つい二ヶ月ほど前、仕事でリニア実験センターを訪れた際に、綺麗になって河口湖駅前に






さて、この温根湯森林鉄道、1920年(大正9)年着工と道内では最も古い森林鉄道で、軌道の延伸とともに主流・無加川の各支流にも多くの支線を伸ばしてゆきました。今回は時間の関係もあって厚和地区からケショマップ沢へ分け入る軌道跡だけを覗いてみましたが、残念ながら、橋台を含めて痕跡らしい痕跡を発見することはかないませんでした。
その辺の事情を、小熊米雄さんは著作『北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について』のなかで「特に温根湯森林鉄道は、昭和29(1954)年秋の15號颱風による風倒木処理のため石北国境越への延長線があり、留辺蘂貯木場・層雲峡山元土場間、52.0kmで、そのうち層雲峡山元土場・大町中継土場間、16.1kmの逆勾配を含む区間では、運材列車用として、主にB−B15ton」が使用されるようになったと記述しておられます。通常山奥から搬出される木材は、勾配を下って国鉄駅に隣接する貯木場に集められます。つまり盈車(積車)が勾配を登ることは想定されていないのです。ところが温根湯森林鉄道は石北峠(西 裕之さんによれば、営林署では局境であることから旭北峠と呼んでいたようです)を越えてしまっていますから、当然、層雲峡側から峠の頂上までは木材を満載した運材列車が勾配を登らねばなりません。そこで緊急避難的に考案されたのが、わが国初の自重15tの森林鉄道用B−Bボギー式ディーゼル機関車だったのです。
かつて私が路線の特異さとともに温根湯森林鉄道を記憶した理由のひとつに、このB−Bボギー式ディーゼル機関車の存在がありました。時あたかも老舗・酒井工作所が森林鉄道用超小型ボギー式ディーゼル機関車の試作を開始した頃でしたが、温根湯森林鉄道では福島の協三工業が製造した自重15tという従来の森林鉄道用機関車の概念を越える大型機を導入しました。協三としても初のボギー式ディーゼル機関車です。搭載ディーゼル機関は日野ジーゼル工業製6気筒13741ccのDL‐10形。この森林鉄道用としては“巨大”な機関を箱型車体の中央にレイアウトし、ホイールベース900㎜の両ボギーを駆動するという、実に意欲的な機関車です。
温根湯森林鉄道にことさら興味を抱いたのは、四半世紀ほど前、古書市で旧版地形図をあさっていた頃です。ネットで地図履歴を検索して比較的容易に旧版の地形図のコピーを手に入れられる現在と違い、その頃は古書店や古書市にたまに出品される旧版地形図を集めるのが消えた鉄軌道を調べる第一歩でした。そんな蒐集地形図の中に、昭和30年代の「3色版」(すぐに4色版に移行したため3色版そのものが少ない)5万分の1地形図の「留辺蘂」や「北見富士」がありました。目が点になったのはそこに記載されている温根湯森林鉄道の表記で、図幅の左右を対角線状に、まるで定規でもあてたかのごとく直線で横切っているではないですか。森林鉄道=急曲線の連続といった既成概念を根本から覆すその姿に、いつかは現地を辿ってみたいとの思いが募りました。

時間もないことですし、これは何の痕跡も見出せないか…と思っていたところで、嬉しい標識を発見しました。どうやらこの軌道跡を舗装した際の工事実績標のようで、そこには「留辺蘂林鉄線舗装工事 工事完成平成十年八月十日」の文字が! なんと廃止から45年の歳月が流れているにも関わらず、今もってこの道は「林鉄線」と呼ばれているのです。
3年前の1月に刊行し、その後長らく品切れとなっていたムック
幸い当時の『RM MODELS』のコンセプトのひとつとしても読者の皆さんに好評をもって受け入れられ、1997年9月号までの20回を同誌で、続いて第二部ともいうべき9回分を本誌RM誌上(1999年1月号から同年12月号まで)で、足掛け4年半にわたって掲載が続きました。この間に誌面に採り上げた鉄軌道は東北地方から南は屋久島にまでおよび、B滝さんともども、いまさら振り返ってもよく歩いたなと思います。


果たして広田さんから手渡されたのは、まだ日本国内には数台のデモ機しかないという超レアなライカM8。外観は頑ななまでに従来のMシリーズを踏襲しているものの、巻き上げレバーや巻き戻しクランクがないのがちょっと異様です。裏に回ってみるとそこには2.5型23万画素の液晶モニターが…。この瞬間、いやぁ、ついにデジタルか、との思いがこみ上げてきました。実際に手に取ってみた感覚は「あれっ、大きい!」。M3やM2に慣れた手には違和感のある大きさですが、後になって調べてみると前モデルのM7とはほぼ同寸とのこと。数値で比較してもオリジナルのM3の138×77×33.5ミリ(595g)に対して139×80×37ミリ(545g)と全高で3ミリ、全幅で3.5ミリほどしか違いません。人間の感覚とは実に微妙なものだと改めて思い知った次第です。

注目の画面サイズは18×27ミリのAPSサイズ。24×36ミリという35ミリ判(ライカ判)の生みの親であるライカが,フルサイズCCD、つまりは“ライカ判”を採用しなかったのはちょっと驚きです。これは、さすがにM型のボディーサイズに破綻なくフルサイズCCDを組み込むのが無理だったからだそうです。搭載されている撮像素子は、コダック社がライカM用に開発した有効1030万画素(最大3936×2630)で、基本感度がISO100でなくISO160というのも特筆されます。
8月7日の8071レ/8072レの運転で始まった今シーズンは、8月末に8073レ/8074レ、9月に入って8075レ/8076レが加わり、今まさにハイシーズンを迎えています。沿線の広大な畑では、タマネギやジャガイモ、それに甜菜の採り入れがたけなわ。2年前の取材時にJR貨物の北見営業所長さんから伺ったところでは、北見からのシーズン中のタマネギの総出荷量は36~38万トン。全道の出荷量が年間約60万トンといいますから、この3本の列車によって送り出される量がいかに多いかが知れます。出荷調整用の低温倉庫で保管されるタマネギは、翌年5月まで順次搬出され、石北本線の臨時貨物列車もこの出荷に合わせて運転期間が決まるというわけです。
ところで、近年ではいわゆる「車票」が廃止されて「RFIDタグ」(IDタグ)化されたため、コンテナの外回りを見ても積載物がわからなくなってしまいました。それだけに北見へ向かう下り貨物列車は「返空」と誤解されがちですが、この石北本線の下り貨物列車も“空コン”ではないのをご存知でしょうか。実は北見に送り込まれるコンテナには、使用済みの乾電池や蛍光灯といった産業廃棄物が載せられているのです。これは近隣の野村興産イトムカ鉱業所でリサイクル処理されるもので、戦前からわが国有数の水銀鉱山として操業してきた同鉱業所は、環境問題もあって1973(昭和48)年に採鉱を中止、以後、残された精錬部門が国内唯一の含水銀廃棄物処理施設として脚光を浴びているのです。
搭乗した女満別便は機材繰りの関係から約40分のディレイ。レンタカーを蹴ってもいわゆる定番撮影地にはとても間に合いそうもなく、結局、金華駅で8072レを迎え撃つことにしました。3年ほど前に本誌取材でDD51に添乗して金華を通過したことはありますが、駅に降り立つのは9600の補機が健在だったとき以来ですから、かれこれ30数年ぶりということになります。
大雪山系はつい先日初雪が降ったそうですが、全般的にはいつになく暖かい11月で、秋晴れに恵まれた今日も留辺蘂で16℃ほど。カラマツの紅葉はまさに真っ盛りで、金華付近の山々もまさに黄金色に染まっています。
ところで、「金華停車場線」のロードサインに従って国道242を右折すると、そこに広がっていたのは金華の“駅前通り”の廃墟でした。9600の補機時代は、金華には模型にしたくなるような給水塔があり、常紋越えに挑む前に水を飲む機関車たちで賑わっていました。もちろん小さいながらも駅前にもそれなりの活気があった記憶があります。ここ金華に限らず、蒸機時代の“古戦場”には、無煙化とともに町そのものが廃れてしまった所が少なくありません。機関支区、駐泊所、給水設備…等々、蒸機のために働く人々が去るとともに、町も衰退していったに違いありません。金華駅前の廃墟を見ながら、30年の時の流れに思いを馳せずにはいられませんでした。
お送りいただいた3年ほど前の写真と比べると、まるで別の車輌のように美しく甦った姿は、まさに全検出場直後といった感じです。山崎義和さんを中心とするこの「天竜二俣キハ20修復ワーキンググループ」の皆さんは、旧塗装の剥離から錆落とし、下地処理、そして再塗装と月1〜2回のペースで修復作業を進めてこられたのだそうで、その地道な努力にはほんとうに頭が下がる思いです。先日ご紹介した沼田のボールドウィンといい、このキハ20といい、ボランティアの力が各地で着実に実を結んでゆくのは何とも嬉しい限りです。








