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2006年06月17日

青木先生と余部橋梁を訪ねる。(上)

amarube4.jpg今日は青木栄一先生とあの山陰本線余部橋梁に来ています。6月12日の本欄「余部鉄橋の有終を刻む」でもご紹介しましたが、現在、地元の兵庫県香美町がこの余部橋梁にちなむさまざまなイベントや行事を企画しており、そのメインイベントとも言える「全国鉄橋サミット」(10月21日開催)の基調講演をされる青木先生の事前視察にお供しての現地入りです。梅雨時ゆえ心配された天候もまたとない好天に恵まれ、予想以上に実り多い視察となりました。
▲高さ41.45m、余部橋梁の神々しいばかりのその偉容にはいつ見ても圧倒される。'06.6.16

amarube6.jpg余部橋梁を訪れるのは一昨年の夏以来ほぼ2年ぶり。アテンドしてくださっている香美町企画課の藤原さんのお話では、架け替えが公表された昨年から橋梁を訪れる人は増加の一途をたどり、現在では観光バスまでが立ち寄る一大観光スポットとなっているそうです。もちろん撮影目的のファンの数も激増。とくに今春の「出雲」廃止フィーバーの際はこれまでにないほど多くの人が橋梁を訪れたそうです。
▲餘部駅と余部橋梁の位置関係がよくわかる。なお餘部駅は同じ兵庫県の姫新線余部(よべ)駅と区別する必要もあってか、JRの駅名のみ旧漢字となっている。'06.6.16

amarube2.jpg改めてご紹介するまでもないでしょうが、山陰縦貫線として福知山方(山陰東線)と鳥取方(山陰西線)から建設が進められた山陰本線の最後の難所が、桃観峠が立ちはだかる久谷〜香住間でした。今日のように長大トンネルを穿つこともできず、さりとて海岸沿いは急峻な絶壁が続くとあって、桃観峠を最小限の隧道で切り抜けるには、香住側から徐々に高度を稼いで余部凹地をその高度を保ったままの橋梁で横断するしか術はありませんでした。この久谷〜香住間が未開通のままの“縦貫線”は縦貫線としての役目をなさず、大阪方面から山陰への主要ルートは、依然として舞鶴まで鉄道で出てから航路で境港を目指すという旧態依然としたものだったといいます。その閉塞状況を打ち破ったのが余部橋梁と桃観隧道だったのです。
▲餘部駅ホーム脇には町が建てた「撮影ポイント」の案内標識がある。撮影を終えて“お立ち台”から降りてくるのは青木栄一教授。'06.6.16

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1909(明治44)年12月に着工された余部橋梁は、高さ41.45m、長さ309.42mの東洋に類例のないトレッスル橋で、使われた鋼材は実に943t。そのうち橋脚用鋼材642tは、はるか米国のアメリカンブリッジ社ペンコイド工場から航送され、餘部の沖合いで艀に積み替えられて陸揚げされたといいますから、まさに明治時代の“プロジェクトX”です。もちろん重機などなかった時代ゆえ、架設は人力で足場を組んで行われ、建設に携わった作業員は延べ25万人に及んだと伝えられています。
▲轟音とともに余部橋梁を渡る1D「はまかぜ1号」。国鉄特急色は見られなくなってしまったものの、181系気動車と余部橋梁の組み合わせは不滅のマッチングだ。'06.6.16

1912(明治42)年1月13日に完成、3月1日に開通したこの余部橋梁によって大阪・京都から山陰地方への足は航路から鉄道へと一気に転換したのでした。今年は完成から94年。100年を迎えることなく歴史の彼方へと消えてゆこうというこの橋梁を顕彰し、何とか後世に繋いでゆくことができないか…香美町の取り組みはこれからいよいよ本格化します。

※このブログは昨日アップ予定でしたが、想定外にも香美町がモバイル環境になく(PHS/Air-H"圏外)、一日遅れのアップロードとなっております。

投稿者 名取紀之 : 2006年06月17日 18:16

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