32年前の“今日”へ。−1974年北海道の旅− (1)
東京では桜の開花宣言も出されて、季節は一気に春到来。この時期、学生時代は蒸気機関車の姿を求めて渡道するのが常でした。学割で買った均一周遊券を片手に、100フィート缶から自分で巻き直したトライXを山と携え、わずかばかりの現金を懐に津軽海峡を渡ったあの日々…ちょうど32年前の今日、1974(昭和49)年3月23日に急行「津軽1号」で出発したあの旅の、4月6日帰京までの半月を、日を追ってもう一度振り返ってみたいと思います。同時代体験された方には懐かしい記録として、また若い世代の方には国鉄蒸機が最後の活躍を続けていた時代のいちファンの姿としてご覧いただければと思います。ではまず第一日目、32年前の“今日”、3月23日(土)に戻ってみることにしましょう。

3月23日
数日前から風邪ぎみだったものの、前夜熱い風呂に入ってすぐ寝たのが良かったのか、何とか体調も回復、いよいよ待ちに待った半年ぶりの渡道です。カメラ機材以外はほとんど荷物もないのに、なんだかんだで仕度が遅れ、家を出たのはもう日が傾きかけた17時過ぎ。上野19時27分発の急行「津軽1号」にはもう2時間ほどしかありません。もちろん指定券など買っていようはずもなく、なんとか4輌の自由席に潜り込まねばならないのです。
ところが3月号の時刻表で17番線発と確認したつもりだったのに、上野駅地上ホームまでやって来ると、「津軽1号」は13番線発ではないですか。春休み時期の土曜日とあってどのホームも信じられないほどごったがえしています。17番線まで来てしまったのが大失敗で、13番線先頭の自由席はすでに長蛇の列。推進で進入してきた列車が停止するのも待たず、われ先にとデッキの扉を開けて殺到する東北人のパワーに押され、気付いてみればすでに座席はすべて埋まっていました。
乗車したのは最先頭の12号車オハフ33 2355〔北オク〕。とにかく通路まで人が溢れている状況で、最前部の車掌室前でぼう然。これは初日から一晩立ちっぱなしか…と諦めかけていると、落胆ぶりが伝わったのか、ちょうど車掌室向かいの2人用座席(これは客用座席ではないのかも知れませんが…)のサラリーマン風の中年男性が「私は宇都宮までだから…」と言ってくれました。宇都宮までは約1時間半、何とかその後の寝床は確保することができそうです。EF57 11〔宇〕に牽かれた401レ急行「津軽1号」は、制限95km/hいっぱいで帰宅客で溢れる赤羽、浦和と通過してゆきます。
21時07分、待ちに待ったの宇都宮着。6分停車です。席を空けてくれた中年男性にお礼を言い、ようやく座席にありつきます。隣は弘前まで行くというおばさんで、帰るとリンゴ畑の仕事が待っているとのこと。黒磯からはED75 1006〔青〕に引き継がれ「津軽1号」はひたすら北を目指しますが、春さきとはいえここまで来ると外気はぐっと冷えてきます。先頭車に乗ったのが失敗で、デッキ部から入ってくる冷気が堪えます。これではとても寝ていられないと、通路のドアに新聞紙を挟み込んで紐で固定、まだまだうすら寒いものの、ダイレクトに入ってくる風だけは防げるようになりました。
福島では板谷峠の厳しさを暗示させるごとく全身雪まみれのEF71 10〔福〕+EF78 8〔福〕の重連にバトンタッチ、さらに山形からはDD51 680〔山〕、秋田からは最終第5ランナーED75 720〔秋〕に引き継がれて、401レ急行「津軽1号」は奥羽本線を北上してゆくのでした。
▲16日間有効の北海道均一周遊券は冬季割引+学割で6000円弱。当時手足のように馴染んでいたキヤノンフレックスと、この旅を共にした『道内時刻表』1974年4月号。



