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2006年03月25日

32年前の“今日”へ。−1974年北海道の旅− (4)

3月26日
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この日は朝からすべてが散々でした。素泊まりで…とは言ったものの、朝起きてもお茶一杯ありません。しかもニュースを見ていると夕張鉄道は12時間ストに突入というではないですか。万事休す。国鉄がだめそうなので窮余の策で私鉄・専用線と思ったのに、今日一日いったいどうすればよいのでしょうか…。
▲平和で入換え中の27号機。夕張線と夕張川を挟んで、若菜の28号機と平和の27号機の汽笛が、谷の両側で互いを呼び合うように響き渡る。'74.3.26

当初の計画では夕鉄バスで錦沢のスイッチバックに行くつもりでしたが、それもかなわぬ夢です。オガライトストーブを点けながら宿のおじさんの言うには、8時40分の追分行(本来は札幌行)だけは動くのでそれに乗らないと移動できないとのこと。やむなく8時10分に宿を出て駅へと向かいます。追い討ちをかけるように、出掛けに小脇に抱えた新聞を「それ、ウチのだから置いてってください」と宿のおじさん。とことんついていません。それでもまた道がわからないといけないと、おじさんが途中までぬかるんだ雪道を案内してくれました。

3.26b.jpgストの関係で追分止めとなった3540Dは、その先の接続もわからないためか乗客もまばらでした。キハ22 221〔札サウ〕に揺られてとりあえずはストと関係なさそうな北炭真谷地専用線のある沼ノ沢へと向かうとこにします。ところがこれがアサハカの極みで、国鉄貨物が止まっているのに専用線が出炭するはずもありません。案の定、沼ノ沢から1キロほどの地点にポジションを構えたものの、待てど暮らせど列車はやって来ず、ついに断念。“素泊まり”ゆえ朝食もとっていないので、とにかく駅に戻って朝飯を食べることにしました。
▲化成の入換えに励む28号機。“門デフ”のような切り欠きデフは夕鉄鹿ノ谷機関区のお手製だそうだ。'74.3.26

3.26c.jpg沼ノ沢駅前には「かど蛯食堂」という駅前食堂があるだけ。選択の余地はなく、暖簾の出ていない引き戸をガラガラと開けて覗き込むと「今日はまだなんですよ」との声。まだと言われても、コンビニがあるわけでもなく「何かできませんかねぇ」と問い返してみると、ウチの食事でよければ…ということになりました。隣のテーブルでは店の子でしょう、高校生くらいの男の子が深刻な表情でベストセラー『ノストラダムスの大予言』を読みふけっています(もちろんこの時点で彼はこの大予言が“大ハズシ”になることは知るよしもありません)。ややあって出てきたのはしいたけやちくわなどが入った炊き込みご飯のようなもの。どうやら昨日の夕食の残りのようですが、贅沢は言っていられません。足の周りをゴロゴロと歩き回るネコを気にしつつ、まずは完食。お礼とともに200円也を払って「かど蛯食堂」を出ました。
▲遥かロッキーナローを思わせる鹿ノ谷のコールタワー。右に給水スポート、手前に砂乾燥室が見える。'74.3.26

動いている夕鉄バスで清水沢まで行き、清水沢でバスを乗り継いで若菜へと向かうことにします。別に確固たる勝算があったわけではありませんが、若菜の化成工業所や隣の平和炭礦では入換えくらいは見れるだろうという読みです。
清水沢は大夕張鉄道無煙化後は訪れる人も少なく閑散としていました。懐かしい待合室に入ってみると、路線短縮にともなって行き先の「大夕張」の頭に「南」の文字が紙片で貼り付けられているのが印象的でした。

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バスで若菜までやってくると、予想は良い方に当たりました。化成専用線で28号機がさかんに入換えをしています。若菜構内にいた27号機も平和に向けて発車してゆきます。どうやら本線列車以外の入換えなどは通常通り行われているようです。
▲ストの影響もあって閑散とした鹿ノ谷の庫。見慣れた12号機は右の庫で中間検査の真っ最中であった。'74.3.26

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若菜から鹿ノ谷までゆき、庫内の12号機などを撮ってからバスで追分へと戻ることにしました。ところがバス停まで息せき切って走ったものの、中央バスと夕鉄バスのバス停が2mほどずれており、タッチの差で乗り遅れてしまいました。いやはや、とことんついていない日です。ふてくされながら鹿ノ谷駅へ戻ると、今度はラッキーなことにストが解除になって次の追分行734Dが運転されるとの朗報! 災い転じて何とやらで、さっそく3輌編成の先頭車に陣取ります。定刻16時30分を少し回った頃、一般客1名と学生1名、それに「動力車」の腕章をしたナッパ服姿の職員ひとりと私、合計4名だけを乗せた734Dは、刺すような夕日の中を夕張の谷をあとにしたのでした。
▲17時29分、追分を出る229レ。暮れなずむ構内に響くC57のブラスト音が次第にピッチを速めてゆく。'74.3.26

追分からはC57 44〔岩一〕の牽く229レ(オハ62 105)で栗丘へ。昨日忘れた手袋を引き取り、駅から少しいった雑貨屋の前のバス停から18時29分発の中央バスで岩見沢へと向かいました。岩見沢駅前の「大衆食堂」とでかでかと看板のある「まりも食堂」で300円也のカツ丼を奮発。ところがこれがボリュームはあるものの、何かの間違いではないかと思うほど味がなく、やむなく醤油をぶっかけて散々な一日が終わったのでした。

ただ、実はまだ更なる試練が待っているのです。ストの影響で夜行列車が大幅に乱れており、安全パイとして明日も夕張地区へ舞い戻るため、旭川の待合室で仮眠をとって深夜3時45分旭川発の上り518レ「大雪5号」で岩見沢に戻ろうというのです。果たして、かなりむちゃな“旭川ターン”は成功するのか…、久しぶりに乗った旭川行の「電車」、モハ711-3の中でも不安はつのるばかりです。

投稿者 名取紀之 : 2006年03月25日 01:05

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